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大豆で作る「醤(ひしお)」


かつて外国人が日本の空港に降り立つとにおいがすると揶揄したほど、しょうゆは日本の代表的な調味料とされています。ちなみに、欧米ではチーズ、韓国ではキムチ、中国では八角、フィリピンではココナッツなど各国特有のにおいがしたそうですが、真偽のほどは定かではありません。しょうゆのルーツは、古代中国に伝わる「醤(ジャン/ひしお)」であるといわれています。これはもともと食品の塩漬けを意味し、果実・野菜・海草などを材料にした「草醤(くさびしお)」、魚を使用した「魚醤(うおびしお)」、肉を使った「肉醤(ししびしお)」、穀物を原料とする「穀醤(こくびしお)」などがありました。紀元前8世紀ごろの中国の書物『周礼』に「醤」の文字が初見しますが、これは肉醤であったと推測されています。また、孔子の『論語』にも「その醤を得ざれば食らわず(食べ物に適した醤が手に入らなかったら食べない)」とあります。麹を用いて醸造するしょうゆは、中国での穀醤が起源と考えられていて、紀元1世紀ごろの後漢時代の書物『論衡』に豆醤の記述が見られ、さらに6世紀ごろの中国南北朝時代の書物『斉民要術』には大豆に麹を加えて醤をつくる製法が記されています。日本に「醤(ひしお)」としていつ伝わったのかは不明ですが、701年の大宝律令によると、宮内庁の大膳職に属する「主醤(ひしおつかさ、醤院とも)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされています。この醤は、現在でいうところのしょうゆと味噌の中間のようなもので、宮中宴会などで嗜好されていたようです。923年に醍醐天皇の命で公布された『延喜式』には、京都に醤を製造・販売する業者が存在していたことが記述されています。平安京の東の市には醤店、西の市には味噌店が設けられ、それらに漬けた魚なども売られ、また役人の給与の一部としても醤が支給されていたようです。そして1254年の鎌倉時代になって、信州の禅僧・覚心(かくしん、法燈国師とも)が中国から持ち帰った「径山寺(きんざんじ、金山寺とも)味噌」の製法を紀州・湯浅の村人に教えているうちに、この醤からしみだす汁(たまり)がとてもおいしいことに気づき、現在の「たまりしょうゆ」の原形になったといわれています。

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