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次号を読む

米と日本と日本人

2009年9月14日 更新

第7回 米と帰化人

日本が国家として体裁を整えたのが七世紀末から八世紀初頭の頃である。

七〇一年の「大宝律令」の成立をもって、「日本」という国号が制定され、東アジアにおける律令国家の仲間入りをした。

「大宝律令」は先進国、中国からの継受法だが、日本の国情にあわせ大幅に手を加えたもので、そっくりそのまま受け継いだわけではない。


大雑把な言い方をすれば、律令国家とは皇帝に権力を集中させ、法を定めその執行を全国から試験によって選抜(科挙制)された官僚にゆだね、中央政府が国司を遣わし、地方を統治する、中央集権をめざした国家制度である。

一方、わが国は卑弥呼の時代より有力首長が各地に割拠し、緩やか首長国連合の要素が根強かった。「大王」が「天皇」と呼称を変えても、本質的には地方勢力を無視できない状況は変わらない。江戸時代の徳川幕府と各藩の関係も然りである。

わが国の官僚は畿内の有力貴族の子弟が独占(陰位制)し、国司は各地の有力首長が任命された。天皇の地位は律令には明記されず、法を超えた存在であると認識されていた。天皇は名前はあるが姓はない。姓は天皇がその臣下に授けるものであって、天皇が自身に姓を授けるのは論理矛盾と考えたからだ。


さて、帰化人の話である。

紀元前より朝鮮半島から多くの人がこの日本列島に移り住んだのはまず間違いないが、文献にそのことが書かれたのは「日本書紀」の第十代天皇、崇神天皇のときである。崇神天皇は「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)の称号を持った天皇で、実在の天皇といわれている。

朝鮮半島から「ツヌガアラヒト」という王子が長門(山口)に上陸し出雲を経て敦賀に定住したとある。「ツヌガアラヒト」を祭った神社が現在の「気比神社」である。

次に第十一代垂仁天皇の時代には新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)が播磨の国に入り、その後、近江を経て但馬の国に居を定めたとある。出雲、播磨、近江はともに鉄の有力生産地である。

鉄の輸入が盛んになり、その鉄製道具を使い河内をはじめ「諸国に令して池や溝を沢山開かせた。その数は八百あまり。農を大切な仕事とし、これによって百姓は富み豊かになり、天下太平であった」と書かれている。

神功皇后の子、第一五代応神天皇のとき「高麗人・百済人・任那人・新羅人当が来朝した。-略-漢人らを率いて率いて池を作らせた。そこでその池を韓人池」と名づけている。

さらに百済から機織の技術者、文書家らが多数来朝している。

第十六代仁徳天皇のときも新羅から技術者が送られ、彼らの力で堀江の溝、茨田の堤を築き、古市(現在の羽曳野)に大溝を掘り「石川の水を引いて、-略-原をうるおし、四万頃あまりの田が得られた。そこの人民達は豊かな稔りのために、凶作の恐れがなくなった」とある。

鉄器を携えた帰化人たちは、農業・土木技術を駆使して河内平野を中心に多くの溝・溜め池・堤を築き、新田の開発に大きな寄与をした。

二年前、藤井寺、羽曳野市を訪れたが、古市大溝跡は今では住宅街の裏にその面影の一部を残すのみとなっている。当時は船着場と蔵が建てられ、物資の輸入、保管は計算と文書管理に長けた帰化人たちが一手に引き受けていたようだ。


米作りが急速にすすんだ陰には帰化人の存在がおおきかった。