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農のある暮らし

2012年1月20日 更新

第3章 新たな出会いについて

あえて不便さを面白がる 私のプチ田舎暮らし


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膝を折った姿勢で苗を植える作業

田舎暮らしに魅力を感じる要因をあげるとすればその第一は田舎には都会にはない豊かな自然があることです。

日本の四季の移り変わりははっきりしていて、それぞれの自然を肌で感じることができます。硬いアスファルトに慣れきった都会暮しの足の裏には未舗装の土の感触が心地よく感じられます。まして畑のふわふわした土の感触はことさらいいものです。春の日差しに温められた畑の土はぽかぽかと暖かく、土のなかの生き物にとっては極上の真綿布団にくるまれているようです。

自然は人の心を解きほぐし、ぎすぎすした人間関係や仕事のプレッシャーから開放させてくれる不思議な力があります。圧倒的な自然を前にすると、小さなことに悩みくよくよする自分がちっぽけな存在であることに気づかされます。そして自然はすべからく平等に人の心に元気や生きる活力を与えてくれます。

東日本大震災による巨大津波は一瞬にして人々の命と暮らしを根こそぎ奪い、自然の恐ろしさ、残酷さを心底味あわせてくれました。被災者の多くは遠く海を見て尊い肉親の命を奪った自然をうらんだことでしょう。生活の糧を恵んでくれてきた豊かな自然がなぜこれほどまでに残酷な仕打ちをするのか憤りを感じたことでしょう。

しかし憔悴しきった心を癒してくれるのもまた自然であるというあい矛盾した歴史と現実。

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鍬を使った畝作り

自然は何事もなかったように穏やかさを取り戻し、人は再び自然から豊かな恵みを享受し始めます。何千年となく私たち日本人は自然に対して「畏敬の念」を払ってきました。

まさに「畏れながら」も「敬って」きたのです。

人間は自然とともに生きてきた歴史があります。

科学万能を過信した一時期もありましたが、東北大震災の経験からやはり人間は自然の前では謙虚であるべきことを思い知らされました。

そして田舎暮らしに関心を寄せる共通した動機は自然に対する魅力ではないでしょうか。

都会においても緑豊かな自然の存在がどれだけ人の心を癒してくれるか容易に想像できます。都会の中の大きな公園、神社仏閣、ぽつんと残った屋敷林に何かほっとしたものを感じます。

しかし都会の中の残された自然は人の手で管理された自然です。都会に暮らす人の自然との関わり方はただ眺めるだけというきわめて限定的で受動的なものです。いわば一幅の絵を鑑賞している行為に限りなく近いといえます。

では田舎に暮らす人の自然との関わり方は都会人とどう違うかといえば、実はあまり変わらなくなってきているという現実があります。

田舎の過疎化という現象には不便な生活から、便利な生活がある町への避難という側面があります。より便利な生活を求め村から町へ、町から都会へ、小都市から大都市へと、特に若年世代を中心に人が移り住んできた経緯があります。

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機械に頼らない小麦の脱穀作業

中山間地域に住む若い夫婦が小さな子供とともに町中に移り、これまでの隙間風が通る昔風の家からアルミサッシで機密性の高い住宅に住み、生活の糧を農業ではなく、会社勤めにもとめています。アルミサッシの窓を通して圧倒的な自然をいつでも見ることができますが、自然は見るだけで積極的に関わるものではなくなりつつあります。その点では都会生活をする人となんら変わりがありません。

田舎の小学校では都会と同じように米作りや野菜作りが授業の一環としてあるいは課外活動として行われています。米農家の子もいまや父母や祖父母から米作りを教わらず、学校で学んでいる始末です。

田舎暮らしの楽しみは自然と密にかかわることにあると思います。

そのかかわり方は人さまざまですが、山好きな人は登山を楽しみに、写真が趣味にする人は景色や風景、野草などを撮ったり、食いしんぼうは山に入って山菜とりを楽しみにしています。

短期滞在型の別荘でテラスからのんびり景色を眺めることもけして否定はしませんが、田舎暮らしを目的とするならもっと主体的かつ能動的に自然にかかわることにおおきな意味があると私は思っています。

田舎暮らしといえば土いじりや家庭菜園、大掛かりな家庭菜園的な農業を目的にするケースが多く見受けられます。

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できた小麦粉でうどん打ち

特に退職して田舎暮らしに魅力を感じる人にとって畑仕事は誰からも強制されずに自分のペースでしかも自分の判断ですすめる仕事です。その仕事の成果は作物の出来不出来という形で現れます。会社の仕事は組織の歯車のひとつとしてこなしてきましたが畑仕事は何から何まで自己責任で行うという違った喜びがあります。

作物は手のかけ方でうまく育つかどうかがきまります。また毎年同じ作業手順の繰り返しのように見えて実は作物はその年の気象条件次第という不確定要素に左右される仕事です。

けして一様ではない自然を相手に、常に頭を働かせ、創意工夫を求められます。農業は頭がよくないと務まらない仕事です。

農業は典型的な3K(きつい、きたない、危険の意味)仕事といわれます。確かに職業としての農業はその指摘を免れない側面があります。農業を取り巻く環境は、ことにグローバルな社会にあっては世界が競争相手になり、利益を上げながら農業だけで生活することは難しい時代になっています。

しかし、農業を職業としなければ農業ほど知的な肉体労働は他に見当たりません。

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手作りで育苗小屋を作る

畑作業には肉体を使う楽しさがあります。ホウレンソウ、コマツナといった葉もの類やニンジンなどの種は恐ろしく小さく、こんな小さな種がどうして立派に育つのか、その不思議なメカニズムに感動すら覚えます。小さな種を小さな穴に一粒づつ播いていく作業は指先の繊細な動きが求められます。種まき用の穴が深すぎると、てき面に発芽率が落ちます。またニンジンの種のように光を好む種類は播いた種の上からごくごく薄く土をかけなければなりません。非常にデリケートな作業の連続で、播く人のデリカシーなセンスが問われます。

この種まき作業は膝を折って、いわゆる「うんこ座り」の姿勢を長時間とりつづけるので、かなり足腰が鍛えられます。

また畑作業の総労働時間は意外に長く畑作業はやるべきことが次から次へとあって、収穫と種まきの時期が重なるときはそれこそ休む暇の無いくらい多忙を極めます。もちろん耕す畑の面積や作る作物の種類の多さによって忙しさは比例します。ある程度の畑の面積がある場合は作業に慣れるまではゆったりとした時間の使い方のイメージからは程遠い生活を余儀なくされると思います。「晴耕雨読」のイメージからは想像がつかないほど忙しく立ち働かなくてはなりません。

心地よい肉体の疲労で作業が終わった午後は読書よりも睡魔に襲われ確実に昼寝に時間が割かれてしまうでしょう。

田舎に住む人が生活の不便さを理由に都会に出てしまう一方で、あえて不便な田舎暮らしをする人のモチベーションはどこにあるのでしょうか。

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同上

それは、いま述べてきたように自然に対する再認識、自然回帰傾向がベースにありますが、田舎生活の不便さの中に新しい発見を求める楽しさがあります。

たとえば畑の畝作りには農機具メーカー製の手動式耕運機が10万円台で手に入り、機械を使えば作業効率はぐんと上がります。しかし肉体的レベルに応じた作業量であればあえて鍬を振り上げたほうが健康にはプラスになります。背筋も鍛えられるし上半身と下半身の体のバランスもよくなるでしょう。

昨年小麦を作った経験から感じたことは、大正時代から使われ始めた足踏み脱穀機程度の機械さえあれば作業はかなり楽になります。専業農家では刈り取り、脱穀、脱穀後の籾殻と実の選別は、大型コンバインで行い、その後外部に委託して機械的に熱風乾燥を行い、最後に製粉を行っています。非専業農家ではこの一連の作業のなかで脱穀は足踏み脱穀機を使い、籾殻と実の選別は唐箕という簡単な木製の手回し送風式の道具を使います。乾燥と製粉は専門業者に依頼して行っていたようですが、農家の大半は小麦つくりをやめてしまっています。

日本農業の小麦を取り巻く状況は採算的に厳しく、そのため専業農家も減り、兼業農家でも小麦はほとんど作られなくなっています。

そんなときに、営利目的としなければあえて不便で効率も悪く、体力と時間がかかる手仕事的な作業をあえて挑戦してみるのです。時間が有り余った退職者にとってはむしろ興味深い作業になります。

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育苗小屋で春夏野菜用の苗作り

また畑作業はやることが多く、けして時間が有り余ることはないと言いましたが、直接的な畑作業以外でも付帯した準備などいろいろな仕事が待ち受けています。

年初に作付け計画を立てて、それにあわせた種苗と肥料を購入、ならびに不足している資材の点検と買い足し、農器具の手入れと小屋などの新たな施設の建設と補修などです。

年初の作業としては堆肥を畑全面にふりまき、トラクターですき込み土作りをして、春夏野菜作りの準備を行います。

3月にはいると夏野菜の苗作りに取り掛かります。用意した種をポットに播いて日々の水やりなど育苗管理の仕事が待ち受けています。キュウリ、トマト、スイカ、カボチャ、レタス、ピーマンなど数種類の苗をほぼ同時期に作りはじめます。秋冬野菜では8月末頃からブロッコリー、カリフラワー、ハクサイ、キャベツなどの種をポットに播いて苗作りを始めます。近年の夏の猛暑での苗つくりは温度管理が難しく手間がかかります。

また、本格的に雑草が繁茂する前に、こまめな雑草とりを日々行います。

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大掛かりな雑草とり作業

この作業は単調なうえに腰をかがめて行うので腰痛の原因にもなり、誰もがやりたがらない地道な仕事です。特に夏場の雑草の成長スピードは考えられないほど早く、1週間前に根絶やししたつもりでも翌週には全面緑の絨毯を敷きつめたような畑を見るたびにがくっと肩を落してしまいます。雑草とりは冬期を除き一年を通してやらなければならない仕事です。

また秋から冬にかけては近くの林のなかの落ち葉を集めて堆肥を作り、林の整備を兼ねて間伐した木を乾燥して冬場のストーブの燃料として準備します。枝打ちした枝の一部はキヌサヤ、スナップエンドウなどの豆類のつるをからめるための支柱として使います。

そのほか適宜、一年以上乾燥させておいた孟宗竹を割り、添え木にして使います。

一旦収獲時期を迎えると、収穫物が多すぎてしまいます。そんな時食べきれない作物は長期保存用に加工しなければなりません。

キュウリや大根、ハクサイは漬物に、トマトはケッチャップ、バジルはペーストに、イチゴはジャムに加工します。大豆をつくる場合は自家用の味噌も作ります。

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落ち葉堆肥を作る

収穫した後の作物は食糧として加工保存する場合と食糧ではなく翌年の栽培用の種にする仕事もあります。

労力的にも大変なのはサトイモの処理です。収獲した一部を翌年の春まで約半年あまり、畑の隅に大きな穴を掘り貯蔵します。小芋、孫芋がついた状態のまま親芋ごと逆さまにして穴の底に置き、その上から藁か不要な毛布を被せ土をかけます。

専用の穴掘り機がないので、ひたすらスコップ1本で人の腰くらいの深さまでの大きな穴を掘るのは結構大変です。

百姓は「百の姓(しごと)」をこなす人という意味があるのはご存知でしょう。

簡単な建造物、道具などは自前で作ってしまいます。道具や機械の修理もお金がかかる専門家には頼まず、部品だけを買ってきてできるだけ自分で工夫して修理してしまいます。

建築廃材のアルミ製ガラス戸をもらってきて、育苗用の温室を作ったり、天ぷら油の廃油を再利用してトラクターの軽油代わりに使ったり、器用な人は野菜くずを発酵させてメタンガスを取り出し、台所に引き込んで自給自足の極地を実践している人もいます。

おそらく、これからは農業用水などを使い発電用水車で自家消費する電気まで賄ってしまう人が必ず現れるでしょう。


田舎暮らしの面白さはあえて不便さを選択して、頭と手足を使い自前で工夫対処することにあると思います。