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農のある暮らし

2012年2月20日 更新

第4章 カネ・モノ・時間の使い方

限られた時間の使い方


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「人は何故生まれてきた」という問いに「人は死ぬために生まれてきた」という一つの答えがあります。生命(いのち)あるもの、死は必ず訪れるからです。

生命の誕生には人の意思が相当程度反映されます。結婚をして子供がほしいという男女双方の意志により、子供の数から出産の時期までコントロールされます。また最近では結婚は望まないが、子供がほしいというシングルマザーが増えてきています。

いずれにしても生命の誕生には産む側の明確な意思が存在します。

しかし、一旦生を受けたものが何時、どのような原因で死を迎えるかは誰にもわかりません。自分で自分の死をコントロールしてしまう自殺を除けば、死は生と違い人の意志が介在する余地はありません。死は神のみぞ知る領域に属しています。

ただ人は自らの意志で死を先のばしすることはできます。健康管理に気をつけ、食事制限や適度な運動を心がけ「養生」につとめるのです。

また、医療技術や医療機器の高度化により死の先延ばしが可能になってきています。

特に日本の女性は世界一長生きで平成22年の簡易生命表によれば、平均寿命は86,39歳です。日本の男性も女性には及ばないものの同じく79,64歳で世界第4位の長寿ランクに入っています。


友人、知人の訃報を知らされるたびに自分の近未来に思いをはせることが多くなりました。

60歳をすぎればいつ何が起きても不思議ではない年回りになったのです。

平成22年現在の日本人の平均余命年数は下のとおりです。

「年」男性女性
60歳22,8428,37
65歳18,8623,89
70歳15,0819,53
75歳11,5815,38
80歳 8,5711,59

この数字を見る限り、60歳の男性はその時点でこれから約23年も生きることになます。ほんの少し前まで人生50年といわれた時代がありました。100歳まで絶対に生きると思っている人であれば人生50年時代の2倍の年月を生きることになるので、その意味では随分時間は残されていると感じます。

しかし、視点を変えて、自分が自由に使える時間の長さを計算すると、上記の平均余命は65%まで減ってしまいます。

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というのも人は1日のうち睡眠で7時間、食事、風呂、トイレなどの時間が2時間と見積もれば自分が自由になる時間は15時間に短縮されます。

60歳男性の平均余命が23年弱ですが、自由になる実質年数は15年弱に減ってしまいます。

そう考えれば人生の最終ステージの時間は貴重なものに思えてきます。

“定年後の有り余る時間”という言葉をここまでたびたび使ってきました。しかし、ここからはこの言葉は封印しなければなりません。

何もすることがなくて再就職先を探している、あるいはただ毎日プラプラして時間をつぶしている、そんな人を周りでしばしば見かけます。

退職後の生活設計を立てるうえでまだまだ収入を確保しなければならない人は別として、経済的に再就職せずになんとかやっていける人でもなお、働くことにこだわる人がいます。

仕事が唯一の趣味で、他に何の趣味がないことを理由に企業に再就職した人がいます。仕事が趣味というこの人はおそらく根っからの仕事好きではなく会社にしがみついていないと落ち着かない人ではないでしょうか。

かつての松下幸之助のようなオーナー会社の社長は別として真に仕事を趣味とする人がどれだけいるのでしょうか。事業欲、起業欲旺盛で次々と事業を成功させてきた立身出世型の人は確かに仕事と趣味が一致しているでしょう。あるいはプロスポーツ選手のように子供の頃から好きなスポーツに打ち込んでいたものを仕事にしているケースもあります。しかし、この人たちは趣味と仕事が一致するごくごく幸せで稀有な人たちです。

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もちろんサラリーマンでも少なからず仕事が面白く達成感や充実感を感じた時期もあるでしょう。しかし、それは長いサラリーマン生活のなかのほんの一期間だと思うのです。

サラリーマンにとって仕事とはどんな意味を持つのでしょうか。

これは言わずもがなですが、仕事とは生活のための糧を稼ぐことです。独身なら遊び、趣味、旅行、食事、付き合い、携帯電話料、おしゃれなどにお金が必要です。一人暮らしであればそれに住宅費、光熱費などが加わります。結婚をすれば結婚式の費用、新居、車、家具、子供が生まれればさらに支出が増えます。また子供が大きくなればなるで多額の教育費も発生するので、お金はいくらあっても足りないくらいです。

仕事中心の生活をしていると自分だけの自由になる時間がどんどん削られていきます。結婚をしていれば家庭生活の時間もとられていきます。

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厚生労働省公表の「平成22年度雇用均等基本調査結果」によれば男性の育児休暇取得率は1,38%と依然として著しく低いままです。

私事ですが、今から30年近く前、長男の小学校入学のとき下の妹はまだ2才で妻は下の子を背負って一人で入学式にいったことをいまでも繰り言のように私に話します。当時の上司の大半は子供の行事にいちいち男が会社を休むことをよしとは考えませんでした。

有給休暇もなんとなく後ろめたさを感じながらとっていた、当時はそういう雰囲気の時代でした。しかし現在でも男性の育児休暇取得率の低さをみると30年以上前とさほど本質的なところでは変わっていないような気がします。

ふりかえれば結婚して子供を育て家庭を築くために働き、そのために自分の時間が取れなくても、それをおぎなってなお充実した時間を過ごせたという実感はあります。

リタイアとは家のローンや子育てがひと段落して、仕事も定年を迎え、家と会社から開放されたことと私は受け止めています。言い過ぎかもしれませんが、“家庭のために使ってきた自分の時間”を今こそ取り戻す時期、それがリタイア後の人生だと思います。

時間をもてあます、何もやることがない、ただ毎日ぶらぶらと無為な時間を過ごす、日々妻のお尻を追いかける、こんな話を身近な人からリアルに聞かされると心から情けないと思わざるを得ません。限られた時間をもっと大切に使えばいいのにと思ってしまいます。

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「仕事」とは自分にとってどういう意味があるのか、あったのかを考えてみると、人生の二つのステージでその意味が違ってくると考えられます。いや、そう考えようと努めています。

第一ステージにおける「仕事」とは言うまでもなく「金を稼ぐ」ことです。

自分のため家族のため、家庭のために必要かつ十分な収入を得るためです。労働の対価として収入を得ることが仕事です。そのため自分の時間は極力、家族のため、家庭のために惜しみなく使うことです。

第二ステージにおける「仕事」とは労働の対価として収入を求めない働き方のことです。

それは「仕事」とは言わない、という反論が聞こえてきます。確かに「仕事」ではなく「ボランティア」と言い換えたほうが一般的でわかりやすいでしょう。しかしボランティア活動があまねく浸透しているかというと、まだまだという気がします。

東北大震災の被災地への支援活動を仕事の合間に時間をとって駆けつける人たちもいます。直接的な街頭募金活動はもろもろの事情からできないけれど間接的に活動を支える側として募金に応じる人は相当数います。あるいは旅行好きな人はこの時期あえて東北を旅することで間接的に東北の復興つながると考える人もいます。多くの人は間接的な支援活動に加わるのが精一杯です。

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このように復興支援のための参画にはいろいろな形がありますが、現地へ赴いての直接支援はなかなかハードルが高いのが現状です。また復興支援はこれから何年かかるかわかりません。継続的な直接的ボランティア支援は時間とともにますますハードルが高くなると思います。

そのためでしょうか、ボランティアに対する意識には目に見えない厚い壁、あるいは敷居がまだまだ高い印象があります。

そのため私は敢えてボランティアという言葉を避けて、「仕事」という言い方をしています。

労働の対価を求めない、あるいは実費程度の対価を求める程度の「仕事」があってもいいのではないでしょうか。労働の対価は金でなくても現物でもいいのです。農業ボランティアで「野菜」をいただくことも立派な労働に対する対価と考えればいいのです。

ボランティアに対して理解の薄い周りの人には堂々と「仕事」をしてくるといって出かければいいのです。

東北大震災で支援をしてきた人が異口同音に「被災者を励ますつもりで行ったのに、逆に励まされてパワーをもらった」といっています。労働の対価が金ではなく形の無い心をもらって帰ってきたのです。これも立派な「仕事」ではありませんか。





※本レポート中の写真と本文の内容は直接関係はございません。