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農のある暮らし

2012年4月20日 更新

第5章 地域には誰でもできることがある

高齢社会を活性化するのは誰?


最近外出をすると目立つのが私たちと同じ年代かそれ以上の方々が一団となって行動する姿です。

ウイークデーの郊外の行楽地、史跡など人が集まりそうな場所にリックを背負った軽装の高齢者集団がぞろぞろ歩いている姿が目に付きます。

それは私自身が退職してウイークデーの昼間の時間帯に出かけることができるようになったから気づくようになっただけで、それ以前から見慣れた光景なのかもしれません。

都心のターミナル駅に出ても待ち合わせの小さな輪があちこちにできていてその輪がやはり高齢者によるものが目立ちます。

夕方の繁華街でも男性だけの小さな輪を見かけます。かつての会社仲間のようで、久しぶりに会って飲みに出かけるのでしょう。

こうした光景が少しずつ増えてきましたが、これから十年単位でさらに増えていくのが高齢社会です。

高齢社会イコール停滞社会と単純に決め付けらませんが、昨今のEU圏のドタバタ劇を見ているとけして日本も対岸の火事ではないと思うのです。ギリシャのように財政破綻から国家そのものの存続が危うくなり、若者が働きたくても職が無いという状況が日本にも遠からずやってくるかもしれません。

高齢者を支える若者までも元気になれない社会、これが停滞社会です。


日本における現行の年金システムは現役世代が高齢者の年金を支えるという形になっています。逆ピラミッド型の人口構成の高齢社会では現行の年金システムが破綻するのは目に見えています。

年金制度を少々手直ししても根本的な解決にはなりません。せいぜいできることといえば年金支給年齢の引き上げ、年金支給額の減額です。そしてその行き着く先は年金そのものが支払われない無年金社会です。

これでは年金を受け取る側、年金を支払う側の双方が暗澹たる気持ちになってしまいます。

若者は将来に希望を持つことができず、高齢者は不満と不安を抱え、社会全体から活気が失われ暗く惨めで脆弱な社会になってしまいます。

すると人は皆、自分の生活を守ることを最優先して、自己防衛的な行動に走ります。

気持ちが萎縮して社会全体がマイナス思考のスパイラルに陥ってしまいます。

現行の年金システムは働き世代がリタイアした高齢者を支える世代間の相互扶助システムです。人口構成がきれいなピラミッド型をしていたときは社会全体で世代をまたいで支えあう壮大な相互扶助システムは機能しました。

しかし高齢化社会においては発想の転換が求められます。互いに助け合う相互扶助をベースにしつつも大胆なシステム変換をせざるを得ないと思います。

例えば現行の公的年金を思い切って半分に縮小し、残りの半分は企業年金のように自分の年金を自分で積みたてる私的年金(企業年金のイメージ)に移行して、国は企業のように利子補給するだけにしてしまう。

ただこの新システムの完全移行までの経過措置期間は相当な時間を要するでしょう。十年なのか数十年なのかわかりませんが、いずれにしても自分の年金は自分で積みたてるという自己負担型をある一定割合にしないと特に働き世代は納得しないでしょう。なぜなら現行の年金制度を続けていく限り互いに助け合う「相互扶助」ではなく一方的な「援助」になってしまうからです。


一方、目の前に迫った現行年金制度の抜本的改革を個人レベルでどう向き合ったらよいのでしょうか。

一口に高齢者といっても人さまざまです。私の母はつい先月、95歳になりましたが都内で一人暮らしをしています。90歳を過ぎた頃から膝痛で外出もままならず、買い物は私の二人の姉が定期的に代わってやっていますが、それ以外の日常生活は人の手を借りずにこなしています。

せっかく「介護認定」を受けているので簡単な家事労働をしてくれるヘルパー派遣を依頼するよう姉がすすめても、自分でできるうちは他人の世話にならないと一人がんばっています。

母は80歳の後半までは地域のコーラスグループに入って活動をしていましたが、ある日自分のかかりつけの公立病院から入院患者の慰安としてコーラスの披露依頼がありました。母は2才年上の仲間と二人で世話役を引き受け、自分たちの年齢より若い入院患者を慰安するためコーラスグループに働きかけをして合唱を披露しました。

私の母のようになんとか人の手を借りずに身の回りのことができる高齢者もいます。またある程度資産があり、年金も相応の額を受け取る裕福な高齢者がいます。

高齢者を年齢だけで画一的に見てしまうのはどうかと思います。元気で裕福な高齢者も沢山います。

体が動けるうちは自分のことは極力自分でやることが大事です。そして余裕があれば人の手助けを買ってでもしたほうが良いでしょう。ボランティアという行為はボランティアをする人がボランティアを受ける人から逆に励まされ、勇気をもらうというメカニズムを持っています。

その意味でボランティアは自分のための励ましになるのです。

他人はしょせん他人で最後に頼れるのは家族ということも確かに事実だと思います。家族を大切にすることは言うまでもありません。しかし人は家族以外との関係で助け、助けられることも多々あります。というより他人に助けられることのほうが多いのです。

「遠い親戚より近くの他人」といわれるのはどんな時代、環境下でも普遍です。人は一人で生きていけません。

また親の遺産相続がこじれて骨肉あい食む醜い争いをしているのを見かけます。一旦こじれるとかえって肉親のほうが始末に悪いのも事実です。


高齢化に伴う停滞社会を活性化するには政治の力が絶対に必要です。しかし、政治に期待するだけでは問題は解決しません。

国や地方自治体による行政サービスはどうしても画一的にならざるを得ない面があります。きめ細かさに欠けたり、結論を出すのが遅いなど、行政サービスが現実社会に追いつかないことが多く、問題が起こってから後手後手に動き出すという傾向があります。

行政の弱点をカバーするにはNPOや地域住民自身が積極的に問題を取り上げ問題解決に取り組まねばなりません。前章で取り上げたコミュニティビジネスは地域住民による問題解決型の取り組みです。

コミュニティビジネスの特色は地域住民が地域住民を支える点にありますが、それは以前日本全国どこでも見られた互いに助け合う相互扶助の取り組みです。

かつての日本社会で盛んだった「結」や「講」は優れた庶民の知恵です。庶民が面白おかしく明るい人生を送るために互いに支えあった知恵を現代版に衣替えして実践している例が各地にみられます。


特に戦後の日本社会は現行の年金制度に象徴されるように、私たちは地域社会で普通に行われていた「相互扶助」の精神を忘れてしまい、あらゆることを丸投げするように国や地方行政に委ねすぎてきたのではないでしょうか。「地方自治」の自治とは文字通り、自分のことは自分で治めるという意味です。

知恵を出し合い互いに助け合いながら自分たちの暮らしや生き方を自分で選択し決めていく。高齢社会を生き抜くためにはことさら個人レベルで強い意志と迅速な行動が求められるのではないでしょうか。