東京は墨田区の外れにある「玉の井」という町を舞台にわたしの見聞きした体験を基にした小説らしきものを書いてみたいと思いました。「玉の井」はかつて赤線と呼ばれる娼婦街があったところで、わたしの家はその一角にありました。
昭和27年わたしが4歳のとき父が病気でなくなり、未亡人になった母がそこで駄菓子屋ともんじゃ焼き屋をはじめ、そのもんじゃ焼き屋は「銘酒屋」と呼ばれた娼婦宿のおねえさんたちと近所の不良中学生たちのたまり場になった。
その不良中学生たちのひと組の少年少女の10年以上にわたる愚かしく切ない恋の顛末を軸に、やむなくそれに付き合わされたわたしたちと、わたしたちの店に出入りしていたさまざまなひとびとのさまざまなエピソードを交えて話しは展開して行きます。
話の内容そのものと、赤線「玉の井」とは直接関係はありませんが、そういう場所が舞台であるという点で、「玉の井」は重要な役割を持っています。というわけで、この町のなりたちと、わたしたちがここで暮らすようになったいきさつを、まず7章に分けて書いてみました。前書きにしてはあまりに長い前書きですが・・・。
町の入口に「玉の井パラダイス」というアーチ型のネオンサインが架かっていて、夜になると色とりどりに輝きはじめました。「玉の井パラダイス」はもちろん娼婦街そのものを指していますが、わたしにとってのこのネオンサインはこの街の象徴であり、わたしの心象風景そのものであると思えるので、このお話の題名にしてみました。
わたしの母の貧しげな駄菓子屋ともんじゃ焼き屋もまた、ささやかなパラダイスだったのだと、思うのであります。
わたしが生まれて、20代半ばまで暮らしたのは東京は墨田区寺島町7丁目、こう書いてもすぐに「ははぁ・・・」と思いいたるひとは今ではだいぶ少なくなったかもしれないが、娼婦の町、赤線「玉の井」があったところだ。
警察が「特殊区域」としてその一帯の地図を赤線でくくっていたところから「赤線」と呼ばれるようになったらしいが、わたしの家はその赤線で括られた、端っこにあった。
東武伊勢崎線の浅草駅から、「業平」(現在「とうきょうスカイツリー」に改名)「曳舟」と続いて三つ目の「玉の井駅」(現在「東向島」に改名)で降りて、線路を挟んでラーメン屋や不動産屋、普通の民家や町工場、お惣菜屋らが何の脈絡もなく並ぶ右側の道を150メートルほど進行方向に進むと、「いろは通り商店街」に突き当たる。
どこにでもありそうな商店街で、肉屋、魚屋、八百屋、薬屋、雑貨屋、小間物屋、布団屋、呉服屋、衣料品店、電気屋、喫茶店などがぎっしり並んで、わたしがこどもの頃はそれなりに賑わっていた。
そのいろは通りをさらに150メートルほど進んだ左側に交番とガラス店にはさまれた幅3メートルもなさそうな脇道がある。
その脇道の入口には、赤銅色の鋳物の柱で支えられたアーチ型のネオンサインがかかっている。昼間は見過ごしてしまうくらいの地味な存在だけれど、日が落ちるとアーチはとたんににぎやかに輝き出す。
真ん中に「玉の井パラダイス」の文字が浮かび、文字の両端には、一方は笛を吹き一方は矢をかまえたはだかのキューピットが舞っていた。文字とキューピットのまわりには、赤や青や黄色の薔薇の花がぎっしり並んで、それが点いたり消えたりすると、まるで音楽に合わせて、くるくると楽しげに回っているように見えた。
現在の写真。交番を挟んで右手が「いろは通り」で、左手が銘酒屋街に通じる路地。この入口に「玉の井パラダイス」のアーチが掛かっていた。当時の交番は木造平屋でもっと小さかった。これが、赤線玉の井の入口であるが、そこから即赤線が始まるわけではなく、その道をさらに奥へ奥へと進んでゆく。
道の右側は「啓雲閣」というお寺の塀になっている。わたしたちは「お寺」と呼んでいたけれど、「閣」というのはお寺より格の低い「布教所」という程度のものなのだそうだ。「啓雲閣」には墓地というものがない。墓地がないのは「啓雲閣」がお寺ではなく「布教所」だったからなのである。
「旧玉の井」が繁盛していたその昔、ふらりと現れた旅の僧が、ここで死んだ娼婦や水子たちを憐れんでこの土地に居ついて供養をはじめたのが「啓雲閣」のそもそもの成り立ちなのだという。
啓運閣の塀の向かい側には木造の貧しげな三軒長屋が二つ並んで、その二つ目の奥、長屋にくっつくように建っている二階家がわたしの家である。
わたしの家からまたまた10軒ほどの民家やらいっぱい飲み屋やらが並んだ突き当たり、そこが娼婦の家が建ち並ぶカフェ街のはじまりだった。
知らない人のために、この「玉の井」という町のなりたちをひと通り説明すると、「玉の井」は昭和19年の東京大空襲であとかたもなく焼きつくされてしまった「旧玉の井」と、戦後、いろは通り商店街を挟んで反対側にできた「新玉の井」のふたつに分かれる。
永井荷風の「墨東奇譚」に描かれたのは「旧玉の井」で、わたしが知っているのは「新玉の井」のほうだ。
町のはじまりは、大正12年の関東大震災以前にさかのぼる。
隅田川を隔てた「川向う」には、江戸時代から桜の名所であり、庶民の遊行の地であった向島があり、その先はのどかな農村地帯と言えば言えなくもないような、一面の蓮田が広がる低湿地帯だったそうだ。
その広大な空き地に住友ベークライト、鐘淵紡績といった大工場が立ち始め、大正のはじめに「大正天皇の即位記念事業」のひとつとして、田畝の真ん中を貫いて長さ数キロの「大正道路」ができあがり、それに沿って、工場労働者を客に見込んだ赤ちょうちんの店がぽつぽつと建ちはじめた。
興隆を極めた時期には数百軒の店が立ち並んでいたという、日本最大の私娼街「玉ノ井」の誕生である。
この赤ちょうちんの店、表向きは酒を飲ませる小料理屋だが、実際は客を奥の部屋に連れ込む売春宿で、こうした店を「銘酒屋」と呼んだ。読んで字の如く「メイシュヤ」と読むが、土地の人は「メイシヤ」と発音していた。
国の首都整備構想の一環として、立ち退きを迫られて、移転先を探していた浅草十二階周辺の銘酒屋が、新天地をこの大正道路沿いに定めて、つぎつぎに引っ越してきた。
そして起こった関東大震災。
政府は壊滅的な被害を受けた浅草一帯から、このいかがわしい商売人たちをひとまとめに追い出すことに決め、追い出された業者は、ひとかたまりになって玉ノ井に移ってきた。
前に言ったようにこのあたりは一面の蓮田で、その曲がりくねったあぜ道をそのままに、まさに雨後のタケノコのごとく家が立ち並び、あっという間に数百件の銘酒屋街ができあがったそうだ。「ぬけられます」で有名な玉ノ井の迷路は、元をただせば、田んぼのあぜ道なのだった。
わたしの家の初代である太郎次がここに移り住んだのは、震災の数年前、銘酒屋街「玉ノ井」はまだ出来上がっていなかった。
お茶の水のあたりで米屋を営んでいた太郎次が、なぜここに引っ越してきたのかはわからないが、50代の半ばを過ぎて、建てこんだ町なかではなく、いくらかでも自然があって広々とした所へと考えたのかもしれなかった。
今では想像もできないけれど、太郎次が越してきたころは、澄んだ田んぼの小流れに野草が揺れトンボが舞うようなのどかな景色がひろがっていたという。太郎次はこの新しい土地でも米屋をやっていたそうだ。米屋には新潟出身者が多いと聞いたことがあるが、太郎次も新潟の出だった。
太郎次は幕末の生まれで、わたしの祖父の叔父にあたる。太郎次にはこどもがいなくて、自分たちが無縁仏になってしまうのを憂えた太郎次のたっての頼みで、三人きょうだいの真ん中だった、わたしの母が戸籍の上だけの養女になった。
あくまで戸籍上のことだけだったので、母は太郎次夫婦と暮らしたこともなく、母が養女になって間もなく亡くなった太郎次にはたった一度、後に亡くなった太郎次の妻のタキにも、ほんの数度顔を合わせたきりだった。
そんな風だったから、母も太郎次についての詳しいことは何も知らず、その何も知らない母からの又聞きしか知らないわたしは、さらに何も知らない。ほとんどのことは「だったらしい・・・」と推測するしかないのである。
>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒