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玉の井パラダイス

2012年6月20日 更新

第2話  玉の井名物「ぬけられます」


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「墨東奇譚」の本。

いろは通りで隔てられた旧玉の井は昭和19年の大空襲で草木の一本も残らず燃え尽きてしまったそうだが、区画整理もされないままどんどん新しく家が建てられてしまったので、玉の井名物「ぬけられます」の迷路のような路地は、けっこうそのまま残っている。

ごちゃごちゃと建てこんでいるのは新玉の井のほうもおんなじだけれど、そこがそういう土地だったとは知らないこどものころ、なぜかこの区域を歩くと、妙な不安感というか理由の分からない息苦しさを感じたものだった。

なんど歩いてもよくわからない。右に折れたり左に折れたり、ぐるぐる回っているうちにいつのまにかいろは通りに出ている。

遊園地の「迷路」でふと感じる「永久にここからでられないのではないか?」といった「そんなことはありえない」と思いつつ一瞬襲われるのと同じ不安感。

あるいはまた、この特殊な土地に染み着いた、地力というかある種の魔力のようなものがあったのかもしれなかった。


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「玉の井地図」
「玉の井銘酒屋街」はいろは通りを真ん中にして、「旧玉の井」「新玉の井」の二つに分かれる。 旧玉の井の入口は玉の井駅(現 東向島駅)のすぐ目の前にあり、「新玉の井」は駅から3〜4分歩いた交番わきの小道の先にあった。
わたしが住んでいた「太郎次の家」はその小道の途中、お寺「啓運閣」と「玉の井映画館」の真裏にありました。

家の居間兼寝室兼食堂その他もろもろ、すべての生活の場だった一階の4畳半の鴨居に、太郎次の大きな肖像画が掛かっていて、わたしは生まれたその日から、ずっと昔に死んでしまった太郎次と顔を見合わせてくらしてきた。

朝目覚めると同時に太郎次と眼が合い、眠るときは太郎次がしみじみと優しげな微笑を浮かべてわたしを見守ってくれていた。

古い家には、こうした祖父母や曾祖父母の写真が掛かっていて、たいがいはちょっと不気味な感じがするものだけれど、太郎次の肖像画にはそういう気味の悪さはまったくなかった。

太郎次は面長の品のいい柔和な顔立ちで、口の両端をこころ持ち上げて、かすかに微笑んでいる。そのぶん目尻が下がって、じつにやさしげな表情をしていた。

掛かっていたのは太郎次のだけで、連れ合いのタキのものは掛かっていなかった。


わたしが4歳のとき父親が死んで、太郎次の肖像画のとなりに、父の肖像画が並べられたが、怒ったような顔の父より、太郎次の方がずっと好感が持てたものだ。

太郎次は郷里の新潟にたくさんの山林を所有する、なかなかの資産家だった(らしい)。

が、こどもがいなかったから資産を残そうという意欲もなかったのかもしれないが、無類のお人好しで、ひとに請われるまま、つぎつぎ山林を手放してしまった(らしい)


後年、太郎次が建てたその古い家を壊すことになった時、タンスの奥から山林の所有権を示す書きつけがごっそり出てきた。もしや、ひとつくらい残ってはいないかと、1枚1枚ていねいにめくってみたけれど、どれも「売却済み」の判が押してあるものばかりだった。


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旧玉の井の写真です。暗くてかなり見にくいですが、旧玉の井の実物写真というのはほとんど残っていないそうなので、そうとう貴重な写真と思われます。

そんなわけだから、母が太郎次夫婦から譲り受けたのは、太郎次が建てて、そこで米屋を営んでいた小さな家一軒だけだった。

当時の町なかの家というのはだいたいが小さなもので、その家も、米屋の店先として使われていた6畳の土間、そのわきに3畳にもならない、倉庫としてつかわれていたらしい土間、奥に4・5畳の和室、その奥に2畳ほどの板の間とトイレ、二階にはそれぞれに一間の押し入れが付いた6畳と2畳の和室。


そんなちまちまとした小さな家だったけれど、山林所有者の太郎次は自分の山から木を切り出して、新潟からここまで運んで家を建てたのだそうで、そう言われれば、確かに梁も心柱も一抱えもあるような立派なものが使われていた。

梁にロープを掛けてブランコにして、わたしたちが乗っていくらゆすっても「ミシッ」とも言わなかった。

ちゃんと手入れさえしていればそれなりの家だったかもしれないが、その日暮らしの母子家庭では手を入れるなど思いもよらず、崩れた屋根瓦の上にはトタン板を乗せ、その上に重石を乗せ、割れた外壁はベニヤ板で抑え・・・と、わたしの記憶にある限りは、ひとに見せるのが恥ずかしいようなボロ家だった。


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女給が客を引く実際の写真は新玉の井のものもなさそうです。

特に通りに面した二階の6畳間の窓は障子戸で、いったん雨に当たるとすぐに破けてしまう。母は障子貼りなどしている暇がないので、1年の大半は破れたままの障子紙がバラバラと風にはためいていた。

屋根に重石をのせ、ベニヤ板を打ち付けた木造のあばら家のまんなかで破れ障子が風にはためく姿は、まるで難破船のようだと、よく思ったものだった。


永井荷風がこの旧玉の井を頻繁に訪れるようになったのは昭和11年ころのことで、翌年の12年に朝日新聞の連載小説として発表された。日本中の至る所にあった私娼街のひとつにすぎなかった玉ノ井は、荷風のこの「墨東奇譚」に描かれたことで特別な光を放つ存在になった。

ヒロインの名は「お雪さん」で、荷風となじみになって、「お雪さん」のモデルになった女性が実際にいたらしい。そして、このお雪さんのモデルになった「お雪さん2」とわたしは、ほんのか細い、「だから何なんだ!」といった程度の細〜い糸でつながっている。


わたしが中学生のときのこと、「サンデー毎日」の記者というひとがやって来て、永井荷風が「墨東奇譚」を書いた時に、ほんの一時期、玉の井の民家の二階家に寄宿していたことがあった。調べてみると当時このあたりで二階建ての家はお宅しかなかったので、お宅の2階の一室に荷風が下宿していたにちがいない・・・と言ってわが家の写真を数枚撮っていったことがあった。


しばらくして、「荷風没後○○年記念特集」と銘打って、わが家の写真も掲載された「サンデー毎日」が送られてきた。

写真の下には「荷風が下宿していたと思われる二階家。当時のことを知っているはずの当家の祖父母はすでに亡く、真偽を確かめるよすがはもはやなくなってしまった」という説明が添えてあった。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒