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玉の井パラダイス

2012年7月5日 更新

第3話  荷風と太郎次の家


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玉の井地図

震災で焼ける前の旧玉の井地図。大通りに面したところは商店が立ち並んでいるが、いろは通りの南側の家々はほとんどすべて銘酒屋である。見にくいけれど地図の下の方に滝田ゆうの実家「スタンド・ドン」の名前も見える。商店の多くは焼け出された後でいろは通りに移動してきたので、わたしには馴染みのある名前がたくさんある。もっとも今はその多くは店を閉めたり転業してしまって、いろは通りも他の商店街同様、すっかりさみしくなってしまった。

中学生だったわたしは荷風の小説なんか読んだこともなく、「いけずな物書き」くらいのイメージしかなかった。荷風がそこにいたことがあったと言われても現実の自分たちにかかわりが無ければ「だから何なんだ!」としか思えない。

ただし、父親をなくした母子3人の暮らしはそうとう逼迫していたので、もしや荷風が「世話になったお礼に」と、色紙の1枚も置いていきはしなかったか、どこかに荷風の銘の入った書きつけの1枚や2枚残ってはいないかと、押し入れやタンスのあちこちをひとりでひっかきまわしてみたことはあった。


前にも書いたとおり太郎次の家は、東京大空襲で下町一帯が一面の焼け野原になった時に、奇跡的に焼け残った一角にあったので、戦前の古いものがあれこれ残っていた。

江戸の末期の作という古ダンスのなかには、太郎次がお金を貸した相手から借金のかたに受け取ったらしい江戸時代の年号の入った掛け軸やら、無名画家の山水画やらがいくつも新聞紙にくるまれて放りこまれていた。

そのなかに荷風の一点が紛れてはしないかと思ったのだった。が、そんなものは何も見つからず、「ふん、大作家かもしれないけれど、やっぱりただの渋ちんのいけずなじいさんなんだ」と思っただけだった。もしかしたら、今わたしが寝ているこの部屋に、そういう大作家が寝ていて、同じこの天井を見つめていたのかもしれないなどと考えてみたけれど、やっぱり何の感慨も湧かず、それっきり「だから何なんだ!」のまま過ぎていった。

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太郎次の写真

そして、わたしがむすこを産んだ30年前、実祖父のいとこに当たるひとに挨拶に出かけたおり、ふと思い出して「荷風があの家に下宿していたかもしれない」という話を持ち出してみた。当時のことをしっていそうなひとはこのひとしか残っていなかった。このひとは実祖父のいとこという遠い血縁ではあったが、わたしの両親の仲人であり、太朗次の姪でもあった。早くに両親を亡くして、太朗次夫婦を親代わりにして、結婚するまでの半分をあの家で暮らしていたというので、もしやその当時のことを知ってはいないかと思ったのだ。

「そうですね、確かにそういうひとがいたことがありましたよ」

というのが、その時の返事だった。このひとはわたしの親類にはめずらしく学識と教養があるひとで、そのときすでに80歳をとっくに超えた高齢だったが、少しもボケたところがなく、かくしゃくとした老婦人だったから、「そういうひとがいたことがあった」という言葉はそのまま信じていいものと思えた。

そういう返事があったのなら、「いつ頃、どのくらい、どんなふうにあの家に出入りしていたのか、どんな感じの人だったか」くらい聞いておくべきだったのに、「ふ〜〜〜ん、そうだったのか、やっぱりあの家に荷風がいたことがあったんだ」と納得しただけで、深く追求するほどの熱意は持ち合わせていなかった。わたしにとってはあいかわらず「だからナンなんだ!」なのだった。

玉ノ井のあの家を舞台に、あの家での体験を土台にしたお話を書いてみたいと思い始めて、 書いては止め、止めては書き…を繰り返しながら、玉ノ井のことを書いた書物を手あたりしだい読んでみた。

わたしが書きたいと思っている物語とは直接関係ないけれど、背景、あるいは遠景である私娼街玉ノ井のことは避けては済ませないと思ったからだ。おかげで玉ノ井についてはずいぶん物知りになった。玉ノ井に住んではいても、荷風が描いた玉ノ井が今の玉ノ井ではなく、いろは通りの向こう側にあったことも、1部2部3部・・・と7部まで末広がりに広がって、水戸街道の向こう側までつづいていたこと。水戸街道の向こうにはゴリラ広場と呼ばれる広い空き地があって、そこには見世物小屋が立ち並び、時にはサーカス一座のテントが張られるほどにぎわっていた・・・なんてことも、そのすべてが空襲で焼き尽くされてしまったことも、わたしの家の前のお寺が、もともとは銘酒屋の経営者の集会所であったことも、はす向かいの映画館が、戦前は「玉ノ井館」という寄席であったことも、な〜んにも知らなかった。

さて、はたして荷風がわたしの家に寄宿していたかどうかという話に戻る。

「ご主人は安藤さんというの。玉ノ井館のすぐ裏に住んでいるのよ」というヒロインお雪さんのせりふがある。玉ノ井館のすぐ裏、つまりわが家のすぐ近くに、実際に銘酒屋をやっていた安藤さんという家があった。

で、「墨東奇譚」のモデル探しをしている好事家はたくさんいるようで、この家をたずねてくるひとが絶えなかったらしい。

ある研究者が紹介者を介して訪ねたにもかかわらず、そのときはすでにひとり暮らしだった高齢の奥さんが「ウチは関係ない、何も知らない」とものすごい剣幕で怒鳴って、追い返されたそうだ。


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太郎次の家、できたばかりのときはこんなだった?

その研究者は、「荷風がモデルになった人物に迷惑がかかるのを承知で実名を出すわけはない。佐藤や鈴木といったありふれた名前だと実際に同名で迷惑を被るひとがいるかもしれないので、ありそうであまりいなさそうな安藤という名前を使ったのではないか」という結論を下していた。

が、どうだろう? お雪さんはもちろん架空の名前であろうし、安藤さんも実名ではないかもしれないとわたしも思うのだが、荷風は「墨東奇譚」を書くにあたって、玉ノ井の隅々まで歩き尽くし、調べ尽くしたそうで、詳細な地図も残している。だとすれば、玉ノ井館のすぐ裏に安藤さんという家があることも知っていたはずだ。実際のモデルの名を伏せて、そこに今現在住んでいる人の名を出すようなことをなぜしたのか・・・という疑問が残る。

はたまた、調べ尽くしたとはいっても、安藤さんという人の存在までは気がつかなかったということも考えられなくはない。

しかし、安藤という偽名を使って、「ご主人は安藤さんていうの。玉ノ井館のすぐ裏に住んでいるわ」と書いたら、偶然、玉ノ井館の裏に同名の安藤さんがいた・・・というのも、ちょっと出来過ぎというか、ちがうかなぁという気がする。


太郎次が家を建てたとき、家の裏側は一面の蓮田で、夏になるとカエルの鳴き声がうるさくて眠れないほどだったというから、昭和10年代も、チェックできなかったほど家が建てこんでいたとは思えないし・・・。


で、結局はすべて霧のなか。荷風とそのときそこで暮らしていた一部の人のみぞ知るということになるのではある。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒