• 「概要」へ
  • 「イベント」へ
  • 「申込フォーム」へ
  • 「連載」へ
  • 「情報コーナー」へ
  • 「メルマガ登録」へ
  • 「アーカイブス」へ
  • 「リンク」へ

玉の井パラダイス

2012年7月20日 更新

前号までのあらすじ


「わたしが生まれ育ったのは、日本最大の娼婦街があった「玉の井」という町である。

大正のはじめ、わたしの母の戸籍上の養父「太郎次」がこの町の一角に家を建てちいさな米屋をはじめたときにはまだ娼婦街はできておらず、娼婦街は関東大震災をきっかけにたちあがる。玉の井は永井荷風の小説「墨東奇譚」によって、日本中に名を知られることになるが、主人公の「お雪さん」のモデルは誰か?

「お雪さん」がいた娼家はどのあたりか?「お雪さん」雇い主は?・・・・などなど、好事家のあいだでずいぶん早くから、取りざたされていたらしい。

そこで、わたしが中学生のとき、わたしの家、つまり「太郎次」が建てた家に荷風が間借りしていたらしいという話が浮上してきた。確たる証拠はないながら「そうかもしれない」ということで、「玉の井」という土地の成り立ちを絡めてわたしなりの推理をすすめてみました。

あくまで「仮定」ではありますが、ひとつの「玉の井ワールド」が描き出せますかどうか・・・。」



第4話 荷風の「知る家」


記事関連の写真

写真をさらに写真撮りしたので、不鮮明になってしまいましたが、昭和35年、映画「墨東奇譚」の撮影セット。このころはまだ戦前の玉の井を覚えている人たちが現役で健在だったので、そのひとたちの記憶をもとに、かなり正確に当時のようすを再現したものだそうだ。

こんなふうにドブを挟んで両脇に銘酒屋が立ち並んでいたそうで、淀んだドブからは汚物と消毒薬のにおいが混じった、なんともいえない悪臭が立ち上っていたそうだ。


「玉の井館の裏に住んでいた安藤さんが、作中の安藤さんと同一人物であるかどうか」ということはここでは特に重要ではない。

名前はどうだろうと、お雪さんの抱え主が玉の井館の裏に住んでいて、荷風が太郎次の家に寄宿していたらしいということで話を進める。

わたしの家の前のお寺「啓運閣」は、お寺になる以前は銘酒屋の集会所で、銘酒屋の主人たちのたまり場だったそうだ。銘酒屋では経営者のだんなのほうはオトウサン、おかみさんはオカアサンと呼ばれていて、オカアサンは普通の家庭でも家事全般を受け持っていて、とても忙しく、オトウサンは仕事に行く以外家ではあまり仕事をしないものだ。

まして、職場が銘酒屋である銘酒屋のオトウサンは仕事らしい仕事がほとんどない。日々暇を持て余しては、集会所に入り浸って花札賭博に興じていた・・・らしいのだ。


これもまた、この建物はもともとは京成バスの乗務員の休憩所であって、銘酒屋の集会所だったことはない・・・という指摘もある。なにしろ当時を知る人はほとんど鬼籍に入ってしまっているので、ほんとうのところは何もわからない。

ともかくも、この啓雲閣の前身か、あるいは別のどこかかはわからないが、この周辺のどこかでオトウサンたちはひそかにしろうと賭場を開いていたのは確かだ。


記事関連の写真

太郎次の写真。写真の裏に手書きで明治39年と書いてある。ひざに乗っているのはたぶん、小さいうちに死んでしまったというひとりむすめ。こどもが赤ん坊であることから、太郎次はこのときおそらく30歳前後。とすると、はじめに太郎次は幕末の生まれと書いたが、実際は明治10年前後ということになる。

話は飛ぶけれど、戸籍上の祖母、太朗次の妻のタキは無類の花札好きだったそうだ。こどものうちからさんざん聞かされた話のひとつに、タキのお通夜での出来事がある。

故人への追善供養と称して、参列者が祭壇の前で花札賭博をはじめたというのだ。単なる遊びではなくお金をかけた本格的な賭博であったらしい。

賭博が佳境に入り始めたまさにそのとき、ころ合いを見計らったように刑事がどっと踏み込んできて、その場に居合わせた全員が、いっせいにお縄となった。

葬儀委員長だったわたしの実祖父は賭博には関わっていなかったものの、その場の責任者としていっしょにひょっぴかれて、残ったのは実祖母だけだった。

全員ひと晩留置所に留め置かれ、翌日、出棺の時刻になっても誰も戻ってこなくて、祖母はつくづく困り果てたそうだ。


お通夜の席に踏み込まなくてもよさそうなものをとは思うけれど、おそらく、警察は前々から目を付けていて、「ここぞ」という機会を狙っていたんじゃなかろうか。ともかくもふつうの住宅地ではまず起こりそうもない、玉の井ならではのエピソードである。

もともと生真面目だった祖母は、この一件で心底賭けごとを嫌うようになって、孫のわたしたちがトランプ遊びをするのさえ、いい顔をしなかったほどだった。


ともかくも通夜の席が賭場になってしまうくらいだから、タキの博打好きはそうとうなものではなかったかと思われる。太郎次がつぎつぎに手放してしまった山林も、他人のために用立てたものもあったかもしれないが、タキの博打のために消えてしまったものも多かったのではなかろうか。


太郎次のことは「いいひとだった、いいひとだった」とさんざん聞かされたが、タキに関してはノーコメントで、タキの肖像画もおかれていなかったことから考えると、タキは博打好きの、あまり褒められた性格の人物ではなかったのかもしれない。

記事関連の写真

大正3年と書いてある。好男子の太郎次と比べ、タキはお世辞にも「見目よし」とは言えない、いかにも博打でもやりそうな面構えに見える。傍らの少女は「そういうことがありました」と発言した大おばさん、おそら12歳ほどと思われる。太郎次の写真もこの写真も、別の写真館ではあるけれど、「浅草公園内」となっている。日本一の繁華街浅草に出かけて写真を撮ってくる・・・というのがそのころの流行りだったのかもしれない。

で、このタキの賭博仲間として、お雪さんの抱え主とは、単なる近所づきあい以上の交流があったのではないか。

荷風のなじみになった「お雪さんのモデル」を通じて、この近辺でいっとき間貸しをしてくれるような家はないかと頼まれて、太郎次のところに話が持ち込まれ、二階の6畳一間で良かったらどうぞ・・・ということになったのではなかろうか。

もっとも、荷風の日記にはそのような内容はまったくなく、サンデー毎日の記者が、どこから「二階建ての民家に寄宿した」という情報を得たのかもわからない。

「墨東奇譚」執筆前後の日記「断腸亭日乗」をぱらぱらとめくってみると、あきらかに「お雪さんのモデル」のところだと思える記述がいくつかと、「鎌田」という家が出てくる。

この鎌田も娼家で、「主人出方」と呼ばれる、経営者がすなわち娼婦という、つまり自前の娼家であったらしい。旧玉の井では、娼婦のことを「出方」と呼んでいたのだそうだ。

で、「断腸亭」には玉の井に行った折、荷風は「お雪さんのモデル」の家と「鎌田宅」のほかに「親しき人のところ」とか「いつもの家」とかに立ち寄っている。「お雪さんのモデル」の家も「鎌田宅」もともに娼家であるから、立ち寄ったら他の客が来ていた・・・という可能性も大いにある。

それではわざわざ玉の井までやってきても、あたりを一周して帰らなければならないということになる。荷風は単なる「お客」として玉の井に出かけてきているのではなく、取材のための訪問、一種の仕事なのである。


玉の井に出かけていったとき、いつでも気楽に立ち寄って、一服したり時には仮眠したり、ちょっとした荷物や参考資料などを置いておける仕事場代わりの場所が必要だったのではないか。

記事関連の写真

荷風は玉の井ではボサボサ髪に下駄履き、よれよれの作業服のようなものを着て土地の人間風な姿で歩いていたそうだ。荷風はフランス仕込みのおしゃれなひとだったらしいが、こんな上等なスーツ姿で玉の井あたりをうろついたんじゃ目立ってしょうがない。が、ボサボサ髪の下駄履きで自宅から電車やバスを乗り継いできたとも思えない。変装用具一式を玉の井のどこかの家に預けておいて、そこで着替えて玉の井探索に繰り出したのではないだろうか。

「いつもの家」というのが1軒だけだったのか、いくつかあったのかはわからないが大おばさんの言葉通り荷風が太郎次の家にいたとするなら、下宿していたとかいうのではなく、ときおり立ち寄る「休憩所」のような所として出入りしていたということだったというのが「当り!」であるような気がする。

「墨東奇譚」の中では、お雪さんは荷風の素性をまったく知らないことになっているけれど、こう考えると、お雪さんもその抱え主も太郎次たちも、荷風の人となりを多少は心得ていたということになる。それが「確かにそういうひとがいたことがありましたよ」という大おばさんの言葉につながってゆくと思うのだが、いかに?

ついでに「断腸亭日記」からの抜粋。

「折々来たり見るうちにふと一軒休むに便宜なる家を見出したり。その家には女ひとりいるのみにて抱え主らしきものの姿見えず・・・年は二十四五、上州辺の訛あれど丸顔にて目大きく口元締まりたる容貌、こんなところでかせがずともと思わるるほどなり」


「玉の井にいたり、いつも憩む家に立ち寄るに、おんなは下座敷の暗き中に古蚊帳吊りて伏しいたり」


「家には三つ輪のようなる髷結いし二十一二歳の女新たに来たり、また雇婆も来たり、茶の間に手夕餉を食し至り。主人も来たりたればこの土地のはなしききて・・・」


「いつもの家にて女どもと白玉を食す。一椀30銭とは高価驚くべし。この夜おんなは根下りの丸髷に赤き手柄をかけ、さらし木綿の肌襦袢短き腰巻の赤きをしめたり。この風俗をして明治四十年代のむかしを思いおこさしめたり」・・・・・


これは「お雪さんのモデル」の家と思って間違いなしだろう。


「玉の井鎌田方を訪ない夕餉を喫し八時ころ家に帰る」


「玉の井の知る家に寄りて夕飯を喫す。この家に住めるおんなはこの里にて主人出方と称するものにて主婦の身ながら窓に出て客を引きこむなり」


「お雪さんのモデル」のほかにこのように「鎌田」と名前付きで出てくる家がある。


「午後百花園に遊び、玉の井の知る家に小憩す」「白髭橋より玉の井にいたり、いつもの家に小憩し・・・」

「九州亭に入りて茶漬け飯を喫し、いつもの家に小憩し来路を取りて家に帰る」

「七丁目なる知れる家に訪ね至り、一時間あまり休みて後、歩みて白髭橋に至り・・・」

と、「お雪さんのモデル」と「鎌田」以外にただ「いつもの家」「知る家」とだけ出てくる箇所がたくさんある。そのなかには「お雪さんのモデル」の家と「鎌田」の家が重複しているかもしれないが、太郎次の家も、この「知る家」と書かれたひとつだったのかもしれないと思うのである。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒