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玉の井パラダイス

2012年9月20日 更新

まえがき


これまでは玉の井という町の成り立ちとそれに付随するいくつかのエピソード、つまり話の背景・土台となるものを書きました。

今回8回目からが「わたしの玉の井の話」になります。父親という土台を失ったわたしたちが、この町でどんなふうに生きていったか、どんな人たちに出会い、どんな出来事に出合ったか。玉の井ならではの、おかしくも切ない日々の物語のはじまりです。



第8話 築60年のわたしの家


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昭和50年中ごろ、取り壊し寸前の「太郎次の家」。太郎次の・・・と書くといくらか気が楽だけれど「わたしの家」である。築60数年、ほんとにまぁ、よくもこんなボロ家に住んでいたものだとは思うが、ここしか住むところがなかったから住んでいたのだ。この家を「わたしの家」として一般公開するのは、かなりの勇気が要るのである。

ここから出入りするだけでも気恥ずかしく、普段着のときはまだしも、ちょっと着飾って出かける時などは、そっと戸を開けて、あたりに誰もいないことを確かめてから出て行ったものだった。

ちなみにこの家は外から掛ける鍵というのがなかった。手前の小窓から手を突っ込んで真ん中の戸の鍵を掛けたり外したりしていた。つまり、留守のときは小窓は常に鍵がかかっていない状態だということになる。「こんなぼろ家だもの、空き巣だって入る気にもなれなかろう」と開き直っていた。

昭和20年の大空襲で焼け出されて、わずかな家財道具を荷車に積んでどこかに避難してゆくらしきひと組の夫婦が「こんなどうでもいいような家が焼け残っていらぁ」とこの家を見上げて言ったそうだ。母はそういうことで腹を立てたりしないひとなので、「よっぽどいい家を焼かれちゃったんだろうな、気の毒に」と思ったそうだ。


そのときすでに「こんなどうでもいい家」と言われていたわが家はそれからまた30年もろくな手入れもされずここに立ちつづけていたのだから、こんな姿になってしまっても仕方がない。

徹底した現状肯定主義者の母は「どんなボロ家だろうが、自分の家があって、雨露がしのげるだけでもありがたい」と言っていたが、後半はその雨露さえしのげなくなってしまった。

一階はともかく2階は雨漏りがどんどんひどくなって、家じゅうの洗面器やら盥やらバケツやらをかき集めても足りなくなって、しまいには大きなビニールシートを部屋中に敷きつめなきゃならないほどになった。

あまりの雨漏りのひどさに電球がショートして「バシッ!」という音とともに閃光が飛び散り家じゅうの電気が消えたことがあった。あれは怖かったなぁ。

ともかくも雨が降ったらここでは寝ていられない。この部屋に寝ていたわたしといもうとは布団と枕を担いで階下に避難開始となる。


記事関連の写真

地図中の紺色の部分が母の出身地、東頸城郡大島村。母の村は、赤い線の県境すれすれのところに位置しているはずである。

世の中には悪いことを考えつく人はきりなくいるものだ。ある日、3人の男がわが家にやってきて、「屋根の修理を仕事にしているものだが、お宅の屋根もそうとうひどい。6万で完璧にきれいにしてあげるからやってみないか」と言う。「この通りの誰それさんと誰それさん、向こう通りの誰それさんもみんな自分たちがやった」と、近隣の家の名前をいくつも挙げる。

今思えばあきらかに詐欺の手口なのだが、そのときは露も疑わず、そのころの6万はかなりの痛手ではあったけれど、それで雨漏りがしなくなるのだったらと、それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で6万をかき集めた。


おとこたちは3日ほどやって来て、屋根に登って、瓦をあちこち動かしたり、それなりに修理らしいことをやって、お金を受け取っていった。

しかし、雨漏りはよくなるどころかいっそうひどくなって、それからしばらくして、屋根の修理と称して荒稼ぎしていた詐欺の一団が捕まったというニュースがあった。

わが家にやってきたおとこたちと同じグループなのかどうかはわからなかったが、雨漏りのしない家に住みたいというわたしたちの切ない願いはあっけなく打ち砕かれたのだった。

夜中に目が覚めたら、頭上の壁の隙間から星が見えて、びっくりしたこともあった。


一度など、朝、下に降りて行ったら、階段下の2畳の板の間に雪が一面真っ白に積もっていたことがあった。外れたままどうやっても閉まらなくなってしまった硝子戸の10センチほどの隙間から(10センチは隙間とは言えないかもしれない)降りこんできたらしかった。

雪は7、8センチも積っていて、それを箒で掃き出しながら情けないよりおかしくておかしくて、母と3人で大笑いした。家の中に雪が積もる家なんてそうめったにあるもんじゃない。

それからあと、ねずみとゴキブリがひどかった。こういう土地柄じゃしかたないんだけれど、ともかくも隙間だらけで出入り自由の家だったから、ほとんど共同生活みたいなもので、ねずみのやつもどんどん図々しくなってきて・・・あぁ、思いだすだけでも気持ち悪い。

これも一度だけだったけど、わたしが寝ているところの壁には棚が吊ってあって、そこには何やらわけのわからない荷物がいっぱい積んであって、ねずみがしょっちゅうがさごそやっていた。

記事関連の写真

紙芝居に見入るこどもたち。玉の井に来ていた紙芝居は、前歯の欠けた痩せこけたさえないおじさんで、今でもその風貌や声をはっきり覚えている。単純な内容、稚拙な絵だったけれど、紙芝居がやってくるのがどんなに待ち遠しかったことか。

ある晩布団に入ると例のごとくがさごそ音がし出して、「やだな、やだな」と思いながら寝ていると、突然「チュー!!!」という叫び声とともにねずみがわたしの布団の上に落っこちてきた。いや〜〜〜、あれはまさに絶叫物。

「ギャ〜〜〜」と、ねずみの数十倍もの叫び声をあげてはね起き、一目散に階下へ駆け下りた。目の端にねずみがこれも一目散に逃げて行くのが見えた。ねずみが早いか、わたしのほうが早いかってくらいなものだった。ほんとに、ひどいものだったわ。

ゴキブリもねェ、共同生活というよりほとんど乗っ取られ状態。基本的には台所にいるんだけれど、一匹だけ二階のわれわれの部屋に住みついているのがいた。ゴキブリは見つけ次第即息の根を止める、見逃しはしないというのをモットーにしていたが、この一匹だけはなぜか仕留める気になれなかった。

新聞紙を振り上げると大慌てで逃げるのに、こっちが動きを止めると向こうも立ち止まって、そっと振り向いたりしている。(ような気がした。だってゴキブリには首なんかないから、振り向いたりなんぞできないにきまっているのである)


ともかくも、このゴキブリだけは見逃してやって、部屋の隅にちらちら顔を出したりしても、ドンッと足をふみならしてそれ以上出てこないように脅かすだけにしておいた。このゴキブリに対して感じる妙な親近感は、このゴキブリがおとうさんの生まれ変わりだからじゃなかろうか、なんてバカな事を考えたりして・・・。


う〜〜〜ん、それにしてもよくあんな暮らしに耐えていたものだと思う。何度も言うけれど、耐えるしかなかったから耐えていただけのことで、人間、ほかに選択肢がなければたいがいのことには耐えられると思うのであります。この家での思い出を書きはじめると、話は尽きませんが、ここらで止めておいて、いよいよ本題に入る。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒