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玉の井パラダイス

2012年10月5日 更新

第9話 逆境に強かった母とけなげなすず


昭和27年、11月の終わりのある日、「おとうさんが帰ってくる」というので家の外に出て待っていると、見たこともないような黒塗りの立派な車が玉の井パラダイスのアーチをくぐって、しずしずとこちらに向かってきて(2メートルもない道路だからしずしずとしか走れないのではあるが)家の前で止まった。

父が下りてくるとばかり思っていたら、下りてきたのは黒い服に白い手袋をはめたおじさんたちで、おじさんたちは車の後ろから担架を引き出して、それを家の中に運び込んだ。担架の上に乗って白い布をかぶせられた「もの」が父であった。

わたしは白い布に覆われて動かない父が恐ろしくて、そのそばには決して近寄らなかった。それからわたしは伯母に連れられていろは通りの洋品店に行き、新しい服を買ってもらった。お店の前にかかっていたきれいな花柄のワンピースが欲しかったのに、伯母が買ってくれたのは何も飾りのないまっくろなワンピースだった。洋品店のおばさんが「かわいそうに、こんな小さいのに」と言いながらわたしのあたまをなでてくれた。

翌日、いよいよ出棺となって、柩が祭壇から下され蓋が開けられると、わたしは大慌てで外に飛び出した。ちょうど裏の路地に紙芝居が来ていて、わたしは紙芝居を見ているこどもたちの群に紛れ込んだ。


「死んだ人を見るのはいやだ、ぜったいにいやだ」


そのときわたしの頭の中にあったのはそれだけだった。探しに来た伯母がわたしをみつけて、こどもたちのかたまりから引き出そうとする。わたしは「いやだ」と言って踏ん張る。「なにがいやなの、自分のおとうさんじゃないの、お別れをしなきゃいけないんだよ」

伯母はなんとか連れて行こうと力任せにわたしをひっぱり、わたしは地団太踏んで鳴き叫ぶ。

「しょうがないねぇ、おとうさんの顔を見るのはこれが最後だって言うのに」伯母がこう言って立ち去った後も、わたしはその場にしゃがみこんで泣きつづけた。紙芝居屋のおじさんは話をやめ、こどもたちがわたしを取り撒いてわたしを見下ろしていた。

わたしの記憶はここで途切れ、次には、火葬場でだれかに手をとられて、池の鯉を眺めていた。

これが父の葬式でわたしが覚えていることのすべてである。

幼児期のわたしの記憶は、当然のことながらそうとう暗い。父の発病、入院、母に連れられて毎日のように通った病院。ひっそり静まりかえった病院の廊下、退屈しきってひとりで登ったり降りたりをくりかえしていた冷たい石の階段。そして父の死と、その後につづく不安な日常と心細さ。

わたしにだって、こどもらしく目を輝かせるようなことに出会ったり、キャッキャと笑いながら走り回ったり、わくわくどきどきするようなこともいっぱいあったに違いないが、父の死にまつわる体験があまりに強烈だったので、それ以外のささやかな幸せの記憶はみんなどこかに吹き飛んでしまったらしいのだ。

夫の死という不幸に、さらなる不幸が母に襲いかかる。生後4ヶ月のいもうとに、「小児結核」の診断が下された。母はまさに茫然自失だったことだろう。


ほんとうに死のうとは思わなかったけれど、死んだら楽になるだろうなと思ったそうだ。

夜になると、あまりの所在なさにいもうとを背負い、わたしの手を引いて商店街をふらふら歩き、パチンコ店を覗き、映画館の看板をながめ、路地を行ったり来たりして、最後に行きつくのは線路際で、「死んだら楽になるな」と思いながら列車が轟音を立てて行き過ぎるのを見送っていた。

暗い線路際に佇む母子なんて、これはもう暗い光景の極みではありませんか。


が、母のどん底もここまで。一縷の望みを託して、あらためて検査を受けた保健所で、いもうとのからだにはまだ「菌」さえ入っていなくて、そんな状態で小児科結核などありえないという結果が出た。どこの医者かは知らないが、医者の誤診だったのだ。そのせいでもしかしたら母子3人が列車にとびこんでいたのかもしれないのだ。あまりといえばあまりにひどい誤診であった。

母はここでようやく息を吹き返す。こんなことでぐずぐずしてはいられない。ともかくもちゃんと生きて行かなくちゃ。

母の郷里も太郎次と同じ新潟。新潟県東頸城郡というのは、ひと晩に1メートルも2メートルも積る事があるという日本一の豪雪地帯で、母の村は山奥のそのまた山奥、母がよく言った「どん詰まりのどん詰まり」、その村の先にはもう山しかないという寒村だった。

母の父親、つまりわたしの祖父は官費で新潟師範を卒業した、村始まって以来の秀才で、周囲の期待を一身に集めていた・・・らしかった。


結婚したのは祖父22歳祖母19歳のときで、村ではめずらしい恋愛結婚だったそうだ。そのとき祖父は村の学校の教員で、当時教員の地位はずいぶん高く、祖父は「先生様」とさま付けでよばれていたそうで、祖母からすればひともうらやむ良縁のはずだった。

はずだった、が、この男、本家の末っ子として甘やかされ放題で育ったせいか、「刻苦勉励、額に汗して」なんぞまっぴらごめん、楽して儲けて、あとはごろごろ寝て暮らしたい、夫にするにはまことにふさわしからぬ人物だった。

祖父は結婚してまもなく教員を辞め、思いつくままあれこれ手をのばして、わたしの母が6歳のときコメ相場で大失敗をしたあげくに、家族と多額の借金を残して姿を消してしまい、その後10年余りまったくの音信不通だった。


祖父の失踪事件も同じく村始まって以来の大騒動だったとか。

借金のかたに、田畑どころか住む家さえ取り上げられて、祖母は住み込みの女中奉公に出、10歳の伯父を頭に3人のこどもたちは肩身の狭い「ただ飯食い」として、親類の家に別々に預けられ、小学校を卒業すると同時に順番にただ働きの年季奉公に出されるという、「おしん」も顔負けの辛酸をなめることになった。

その後の細かいいきさつは省略するとして、祖父はわたしの家のすぐそばの、太郎次の家よりさらに小さな借家で祖母と伯父夫婦と3人の孫たちといっしょに、一家の長としてかなり威張って暮らしていた。

喘息の持病があったので、一日の大半を寝て過ごし、こどものわたしから見てもずいぶんつまらない退屈な日々に思えたが、祖父にとってはまさに願ったりかなったりの余生だったのかもしれない。


祖父は祖母と子どもたちの苦労と、今に至ってもまだ貧しさから抜け出ることのできない元凶であり、一族の憎しみを一身に背負ってしかるべき人物だったが、どこか憎めない天性の気楽さといったものがあって、それなりにみんなから慕われ立てられていた。

立てられていた理由の一つは祖父が一族で唯一学識のあるひとだったから。

「おれたちは小学校しか出ていないけれど、おじいちゃんは新潟師範を出て、先生様と呼ばれたほどのひとだったからなぁ」

伯父たちはいかにも自慢そうにそう言うのだった。自分たちが小学校しか行けなかったのがおじいちゃんのせいであるという1点が完全に抜け落ちている。そろってまったくのお人よしであった。

わたしが5年生のとき、風邪気味だといっていつもより具合が悪そうにしていた3日目の朝、急に容体が悪くなって、そのままあっさり死んでしまった。

「このじいさまこそはろくな死に方はするまい、畳の上では死ねまいと思っていたのに、こんな極楽往生するなんて、なんとまぁ、たまげたもんだ」祖父の死を聞いて駆けつけてきた親類のばあさまたちがあきれ顔でそう言い合っていた。

祖父の死の2年後に祖母が死んだ。長年の苦労がたたって病気がちのひとだったが、死ぬ前の半年ほど寝たきりになった。


祖母は潔癖すぎるほど潔癖なひとだったから、寝たきりになって下の世話までひと任せになければならなくなったことが情けなくて情けなくて、「申し訳ない、申し訳ない」と繰り返しながら息を引き取った。ほんとうに最後までいいことのない一生だった。

この祖父母ふたりの死によって、わたしは「因果応報」なんてうそっぱち、神も仏もあるもんかという、深遠なる人生哲学を学んだのだった。

・・・と話が横道にそれてしまったが、元の「わたしたちの話」に戻る。


「わたしの母親は、わたしよりもっと若いときに連れ合いに捨てられ、一生かかっても返しきれないような借金を背負わされ、住む家さえも無くして一家離散の憂き目にあったのだ。わたしは亭主に捨てられたわけでもなく、住む家ばかりか、ひとに貸せる土地家屋まであって、とりあえずは食べていけるだけのお金も残してもらった。おかあさんに比べたらわたしの不運なんかなんぼのものか。こんなことくらいで死んだ方がいいなんて考えていたら罰が当たる」

このとき母が実際にそう思ったかどうかは分からないが、母はなにかにつけて「わたしのおかあさんの苦労に比べたら、こんなことくらいなんでもない、感謝、感謝」と言っていたから、このときもそんな風に考えたに違いない。

母は逆境にいることが当たり前の境遇を生きてきた人なので、本来は逆境なんかものともしないタフなひとなのである。そこで息を吹き返した母はある日、両の手でわたしの両腕をしっかりつかんでこう言ったのだ。

「わたしたちにはもうおとうさんがいないの。だから今日からすずがおとうさんの代わりよ。すずが大黒柱になってこの家を守っていくのよ。しっかりがんばるのよ」

たった4歳のこどもに大黒柱になれなんて、そりゃあんまりだとは思うけれど、母は母で必死だったのだ。

自分に背負わされた荷物があまりに重かったので、ほんの少しほかの誰かに振り分けておきたかったのだろう。そして、振り分けられる相手といったら、わたししかいなかったのである。

「そうか、わたしはここの家のおとうさんなんだ。だからしっかりしなくっちゃ」わたしはわたしで、こう、けなげな決意を固め、わたしはいきなりこどもからちいさいおとなになって、ひと前では絶対泣いたりしない気丈な子を演じつづけることになる。

わたしの家は「豆屋さん」と呼ばれていた。本名で呼ばれることはほとんどなく、どこに行っても「豆屋さん」、母は「豆屋のおばさん」、わたしは「豆屋のすずちゃん」、いもうとは「豆屋のさきちゃん」なのだった。

母なりに「豆屋さん」であることにこだわりを持っていたのだろう。豆は太田垣から配達してもらうことにして、6畳しかない店の半分を豆のショーケースを置くスペースに残して、残りの半分をこどもたち相手の駄菓子屋に変えた。

店には駄菓子のほか、ちり紙やタワシといったちょっとした日用品もおいてあったので、お客はこどもだけでなく、近所のおばさんたちもよくやって来た。

父がいた頃は、父はお愛想ひとつ言えない職人気質の人間だったので、近所のひとが店先で立ち話をしていくようなことはまずなかったが、母が店主になってからは様相が一変、店の中はうるさいほどにぎやかになった。そして、それだけじゃあまだ足りないと思ったのか、人に勧められるまま、太郎次の倉庫で、次には父の仕事場になっていた変形3畳の土間を板の間に変えて、そこで、台がたったひとつしかない「もんじゃ焼き屋」をはじめた。

おんなこどもだけの所帯の気楽さで、「豆屋のもんじゃ焼き屋」は、いつのまにか、昼間は銘酒屋のおねえさんたちの、夜は夜で近くの中学生たちのたまり場になったのである。



>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒