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玉の井パラダイス

2012年10月20日 更新

第10話 小学生なったすず


太郎次の家の間取り。「豆屋」に対する母なりのこだわりがあって、店の半分は太田垣から仕入れた豆類のスペースに、あとの半分が駄菓子のスペースに、「倉庫」の部分を 板の間にして、ここが「もんじゃ焼き屋」になった。

玉の井ってほんとうに貧しいところだったから・・・というとたいがい「あのころは日本中どこも貧しかったわよ」という返事が返ってくる。確かに戦後10年くらいまでは日本中が貧窮にあえいでいた。

が、そのなかでも玉の井のこの一角はとりわけ貧しいひとびとが、風に吹き飛ばされ吹き寄せられるまま吹きだまったようなところではなかったかと思う。


母がよく自慢していたように、わたしの家は幅2メートルに満たないとはいえ、表通りに面した、いわば「表長屋」なのである。消防自動車だって、わたしの家の少し先までは入れるけれど、突き当たったその先からは入れない。その先は消防士さんがホースを抱えて走るしかないのである。狭い土地に小さな家がぎっしり建て混んでいる密集地に、いったん火事が起きたらひとたまりもない。


二千軒とも三千軒ともいわれた銘酒屋はいちおう通りに面してならんでいるが、その裏側には家とも言えないようなあばら家がひしめいている。


太郎次がいたころは太郎次の家の裏側は一面の蓮田だったというから宅地になってもとうぜん水はけの悪い湿地である。しかも表通りより地盤がいくらか低くなっているので、大雨でも降ったらすぐに水が貯まる。 


台風のときなどは床下どころか床上浸水だってたびたびである。そんな家々でも多少なりとも家としての体面を保っているのから、「ナメクジ長屋」と呼ばれるにふさわしい、畳まで半ば腐って波打っているような、けっして足を踏み入れたくないような家までさまざまあった。


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太郎次の家の間取り

なかでもひかり荘という、4畳半ひと間、トイレも台所も共有の木賃アパートは、通りすがりにのぞくと、ゴミとしか思えないようながらくたが狭い通路にうずたかく積み上げられ、腐ったようなにおいが外にまで漂ってくる。絶えずこどもの泣き声が聞こえ、おかみさんたちの金切り声が響き渡り、ちゃんとした仕事もなさそうなおとこたちが廊下の隅にしゃがんでたばこをふかしたりしていた。


そこの住人のおんなの子がひとりいつの間にか姿が見えなくなって、伊豆あたりの芸者屋に売り飛ばされたらしい・・・といううわさが流れてきてもだれも特別驚いたりはしない。

路上暮らしに転がり落ちる一歩手前、まさに崖っぷちの暮らしである。


銘酒屋街の外れを通り抜ける東武線の「ちんちん踏切」では、よく事故があった。人家が途絶え、線路沿いに丈高い鉄道草がぼうぼうと生い茂ったさみしいところで、ここでよく事故が起きた。

事故といっても飛び込み自殺がほとんど。濃い化粧で着飾ったおねえさんたちが行きかい、酔客でにぎわう「玉の井パラダイス」のネオンサインの内側は、そんな息の詰まるようなくらしが営まれていたのだった。


昼間のネオンサインは妙に寒々しくって見上げる気にもなれない。小学校に上がったばかりのわたしが肩幅に余るランドセルを背負って黙々と「玉の井パラダイス」のアーチを通り過ぎてゆく。ちらと交番に目をやるとおまわりさんがひとり薄暗い中で居眠りをしていた。野良犬が一匹足音もなくその前をすり抜けて行った。


そういえば今朝、竹井さんの家の前に酔っ払いのへどが散らばっていたっけ。竹井さんのおばさんはちょっとものぐさなところがあるけれど、いくらなんでももう片付けているだろう。「パラダイス」の下をくぐったとたんそのことを思い出してげんなりした。それにしても今朝のは特別ひどかった。


「玉の井パラダイス」の客の大半はこの道を行き来する。明け方まで人通りの絶えないこの道は酔っ払いの通り道でもある。週に2、3回は長屋の前のどこかに汚物がまき散らされていて、その片づけが朝飯前のひと仕事になる。


向かいの啓運閣の塀にはいつもおしっこがひっかかっていて、お坊さんが塀にいくつも描いた鳥居だってなんの効果もありゃしない。ほんとうに酔っ払いなんて大きらいだ。


このあいだも、鳥居におしっこをひっかけている酔っ払いに向かって、古川さんのおばさんが「ちょっとちょっと、そんなところでおしっこしたりしちゃだめだよ」って声をかけたら、その酔っ払いったら「おしっこは自由だあ!」なんてこぶしを振り上げて叫んで、そのままおしっこを垂れ流したまま「おしっこは自由だ」を繰り返しながらいろは通りのほうに歩いていったっけ。

あんなやつ、おまわりさんが警棒でポコンといっぱつくらわしてやってくれたらいいのに。

ほんとうに、バカばっかりなんだから。


「パラダイス」のネオンは暗くなりはじめる前にとし爺が灯しに来る。とし爺はきゅうりをくろくしたようなひしゃげた顔の年寄りで、町会会館の奥の小部屋にひとりで寝泊まりしていて、はげ頭にすっぽり手ぬぐいをかぶって映画館の休憩時間におせんべいやするめいかを売っている。


その合間に街灯を点けてまわったりの町内での雑用がとし爺の仕事だ。

漫画にでもなりそうな愛嬌のある顔立ちのわりに隙のない目つきの鋭さからすると、やくざかテキ屋のなれの果てあたりかもしれない。


母はとし爺から食べ物を買ってはいけないと言う。とし爺はオシッコをしたままの手でするめを焼いたりおせんべいの袋づめをしたりしているから汚いのだそうだ。

映画館のわきのがらくた置き場でとし爺はいつも七輪の火でするめをあぶっている。とし爺の手はしわだらけで黒ずんで、たしかにあまり清潔そうには見えなかった。


しかし、それなら母はもんじゃ焼が汚いから食べてはいけないなんて言っている人がいることを知ってるんだろうか? 


ランドセルをカタカタ言わせて数人のこどもたちが、にぎやかにふざけあいながらわたしを追い越して行った。わたしはうつむいてとぼとぼ歩きながら、どうして中森君はあんなことを言ったのだろうかと考えていた。


中森君の家は玉の井駅の向こう側でけっこう大きな鉄工所をやっていて、母親同士が仲よしだったから、小さいうちはよくいっしょに遊んだりした。ちょっといたずらでわからんちんなところはあるけれど、けっして意地悪な子ではなかった。中森君のおかあさんだってとってもやさしいひとで、中森君を相手にわたしの家のことをそんなふうに言ってるなんて、とても思えない。


きょうの昼休み、給食がすんでみんながいっせいに立ち上がりかけたときだった。

「おーい、みんな、知ってるか? すずのうちはもんじゃ焼屋なんだぞ!」

中森君がいきなり椅子に飛び乗ってそう叫んだ。

「もんじゃ屋に駄菓子屋もやってるんだぞ〜〜〜」

いきなり自分のことをそんな風に言われて、わたしはびっくりして立ち上がりかけたのをやめた。

「すずのもんじゃ焼屋は不良のたまり場で、パンパンもいっぱい来てるんだぞぉ」

中森君はそう叫びながら机をぴょんぴょん飛び越えてそのまま教室を出て行ってしまった。

みんながいっせいにわたしを見た。


「もんじゃ焼ってなに?」

うしろのほうで誰かが言った。

「よく知らないけど、うちのおかあさんはもんじゃ焼は汚いから食べちゃだめって言ってたよ」

別のだれかがそう答えた。

おとこの子たちが何人かで「パンパン、パンパン」と鉄砲を打つ真似をしながら走って行って、それを追いかけるようにほかのこどもたちもつぎつぎ外に出て行った。


この小学校のこどもたちはだいだい3つの区域から通ってきていた。わたしの家はその学区域の外れにあったからわたしのもんじゃ焼き屋を知っているこどもは少なかったし、もんじゃ焼きそのものを知っているこどもも多くなかった。ましてパンパン等という言葉を知っている子は少なかった。


小学生になったばかりのこどもたちはお互いの親の職業なんかには無関心だった。わたしも特別ななかよしの子以外はどんな家の子なのかなど考えたこともなかった。


それなのにいきなりうっちゃりを掛けられて、ひとりだけ土俵の外に投げ飛ばされた感じがして、わたしは恥ずかしさに消えてしまいたいような気がしていた。

これまで一度だって自分の家の商売を恥ずかしいなんて思ったことはなかったのに、恥ずかしいと思ってしまったこと自体が驚きであり、なにより情けなかった。こういう時、元気のいいおんなの子だったら

「そうよ、わたしの家はお菓子やともんじゃ焼き屋なのよ。みんなお客さんに来てね」

と、そのくらいは言ったのかもしれないが、わたしはただただ椅子にちぢこまって、今にもわっと泣き出したい気分だった。


お昼休みはなかよしのふさちゃんとクスの木のまわりで「つかまり鬼」をして遊ぶ約束をしてあった。

「すずちゃん、行くよ」

ふさちゃんにそう声をかけられても、わたしは立ちあげれなかった。不良、パンパン、汚いもんじゃ、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。


わたしが立ちあがろうとしないので、ふさちゃんはわたしを振りかえり振り返りしながら外に行ってしまった。


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第二寺島小学校のシンボル・クスノキ

校庭のまんなかに大きなくすの木が立っている。雷に打たれたとかで、根本に大きな空洞のある老木だった。

ふさちゃんの赤いチェックのスカートがくすの木の柵の周りでひらひら飛び跳ねているのが見えた。ふさちゃんのスカートのひらひらがいかにも楽しそうに見えて、ひとりぽっちで置き去りにされた気がしていっそう悲しかった。


これが、たぶん、わたしがわたし自身と、わたし以外の世界というものがまったく別個に存在するものだという現実に出会った最初だったかもしれない。


わたしはすっかりしょげかえった気分で家までたどりついた。店先に立って中をのぞくと、母が奥の4畳半のまんなかでちゃぶ台にかがみこむようにしてキャベツを刻んでいた。ちゃぶ台からはみ出すほど大きなアルマイトのボウルの中には千切りキャベツが小山になって、母の包丁の音に合わせて小刻みに揺れている。


「ただいま・・・」


精いっぱい声を張り上げたつもりだったのに、声は途中でしぼんで声にならなかった。

店先には飴や笛ガム、くじ引きのおもちゃといっしょに、はたきやたわしやハエ取り紙までが思いつくままぶら下がっている。店の中がいつもよりいっそううす暗くみすぼらしく見えたのは外の明るさに慣れた目のせいばかりじゃなかったかもしれない。


部屋に上がると母は「お帰り」と応えて顔をあげた。


「どうしたの? ばかに元気ないじゃないの。具合でも悪いの?」


わたしの顔をふり仰ぎながらそれでも母は手を止めない。母は忙しすぎる上に生まれながらの無頓着が加わって、こどもの顔色なんかに気を止めることなんぞめったにない。

ふだんは熱を出したってこちらから言い出さない限り気が付かないくらいだったから、このときのわたしはよほどしおれたようすをしていたにちがいない。


「べつに、どこも悪くない」


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1953年発行の百円札。これの前の百円は「聖徳太子と夢殿」だったようです。

「そう、だったら、いいんだけどね」


母はもうわたしを見ていない。キャベツを刻むのに専念して、まな板に載せられた半切りのキャベツはとんとんと小気味よい音といっしょに見る間に小さくなっていった。


部屋の隅にランドセルを下すと同時に、外で「おばさあん」という声がした。

薄物のカーディガンを羽織った、わが家の常連の「中のおねえさん」のひとり、ローズさんが百円札を一枚つまんだ片手をひらひらさせて立っていた。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒