• 「概要」へ
  • 「イベント」へ
  • 「申込フォーム」へ
  • 「連載」へ
  • 「情報コーナー」へ
  • 「メルマガ登録」へ
  • 「アーカイブス」へ
  • 「リンク」へ

玉の井パラダイス

2012年11月5日 更新

第11話 まだまだ貧しかった昭和30年代


記事関連の写真

ちょっとひとっ走り八百屋へ。もんじゃ焼きに不可欠なキャベツを抱えた母(昭和30年ころ)

新玉の井の銘酒屋で働くおんなたちは数百人、その中で常連としてわが家にやってくるのはほんの一握り、せいぜい10人くらいのものだった。

母は銘酒屋街を「中(なか)」、そこで働くおんなたちを「中のおねえさん」と呼んでいた。

彼女たちの正式な呼称はなんだったのだろう。戦前は「出方」と呼ばれていたそうだが、戦後の銘酒屋は「カフェ」などとも言っていたらしいから「女給」あたりだろうか。

銘酒屋のことは「女郎屋」「パンパン屋」、おねえさんたちのことは「淫売」「パンパン」「パン助」「パン公」などとひどい呼び方をしている人もいた。


中のおねえさんたちは、周辺の堅気の住人とははっきり一線を引いていて、直接かかわりを持つことはほとんどなかった。毎日のようにわたしの家の前を行き来して、顔を見知っていても挨拶を交わすような間柄にはならなかった。


彼女たちはいつかは今の商売から足を洗って、堅気の世界に戻りたいと思っている。しかし、娼婦というのは人目をはばかれる、そのままでは決してあたりまえに世間に受け入れてもらうことはできない存在である。

堅気の世界に戻るときは娼婦であったことは絶対に知られてはならない。いったん知られてしまえば、冷やかな、あるいは好奇な視線にさらされて、「世間さま」から浮いた特別な人種になってしまうのだ。


だから彼女たちは娼婦でいるあいだは、目に見えない赤い線でくくられた銘酒屋街のなかで名前を変えて、厚い化粧という仮面をかぶって生きている。素の自分に戻るのは、この商売から抜けたときで、娼婦のまま素の自分をさらして世間さまとかかわりを持ってはいけないのだ。いつか、素性をひたかくしにかくして、ふつうのおんなのふりをして、世間さまに紛れ込んでいくときのために。


こどものわたしには、彼女たちの仕事の中身はわからない。せいいっぱい着飾って、おとこの人を相手にお酒を飲んだりダンスをしたりするんだろうと思っていた。

実際、たまに夜になって銘酒屋街を抜けることがあると、赤や青や黄色の、色とりどりの明かりがちらつく店の中から蓄音機が奏でるらしい歌や音楽が流れ出て、派手なチャイナドレスや着物姿のおねえさんたちが戸口に立って、たばこをふかしながらステップを踏んでいたりした。


しかし、あんなばかみたいな酔っ払いを相手に、お酒を飲んだり踊ったりするのが仕事だなんて、そりゃあやっぱりあんまりほめらたものじゃない。彼女たち自身もお祭りやお正月ともなると酔っ払って表通りで大声を張り上げたり、ときにはおんな同士、路上で取っ組み合いのけんかをしたりすることもあったから、たいして上等なひとたちとは言えないとも思っていた。


ともかくもどんなきっかけでわが家にやって来るようになったかはわからないが、わが家にやってきていた彼女たちは例外中の例外だったわけである。


その中でわたしがはっきり覚えているのはローズさんだ。なぜローズさんのことを特別に覚えているかというと、ローズさんが少しも中のおねえさんらしくなくて、まるでおとこみたいなひとだったからだ。

いつもズボンをはいていて、スカート姿は見たことがなかったし、お店に出るときだって男みたいな色合いのパンツスーツで、髪は刈上げのような断髪だし、がりがりにやせてて、顔だっておんならしいところなんか全然ないように尖っている。こどもながらにこんなひとにおとこのお客さんがつくんだろうかと思っていた。


ところが、ほかのおねえさんの話によれば、そんなおとこみたいなローズさんが新玉の井で5本の指に数えられる売れっ子なのだそうだ。

「そうだよ、わたしはただのローズさんじゃない、『玉の井ローズ』って呼ばれてるんだからさ」

そう言って顎を突き出しながらぷわっとたばこの煙をはき出すローズさんの声も、やはりおよそおんならしくないかすれ声なのだった。


「おばさん、さっきの借金、もんじゃ2杯とラムネ、二人分で90円でいいんだよね」

ローズさんはもう片方の手にタオルをのせた洗面器を抱えている。向かいのお寺の板塀に午後の日があたって彼女の細い背中を包んでいた。


ローズさんのことを特別に覚えているもうひとつの理由があった。その理由とは、昭和33年に売春防止法が施行され「玉の井パラダイス」のネオンが灯った最後の日の朝に、ローズさんが青酸カリを飲んで死んだからだ。


死んだ理由はわたしにはわからない。


「あの子はさぁ、ああ見えても気の小さい臆病な子なんだよ。世間に出て行くのが怖かったんだろうと思う。そりゃわたしだってこの先どうやって生きていこうかって、心配だらけだけど、親もこどももいるからなんとかするしかないじゃない。でも、あの子はひとりぽっちで待っててくれるひとも誰もないんだもの、ここから出て行きたくなかったんだよ」


翌朝、ローズさんの同輩のチエミさんがやって来て、母にこんなふうに話しているのを、家の中から聞いていただけだった。


もちろんわたしはこの先ローズさんにそんな未来が待っていることなどつゆも思わず、午後の日の中に立っているローズさんのか細い姿を、いくぶんわびしい気持ちで眺めていた。


「あら、そんなに急がなくてもよかったのに」

「うん、おぶに行くついでだから。人間いつどんなことがあるかわからないからさ、借金だけは残さないようにと思ってね。今日は笠の湯が休みだから松葉湯に行くからその通り道さ」


この町には銭湯が多かった。わたしの家からも歩いて5分の範囲内に4軒もの風呂屋があった。それでもこのあたりじゃ内風呂を持っている家など皆無に等しかったから、時間によっては割り込むすきがなくてはだかのまま立ち往生するほど混んでいることもある。笠の湯と松葉湯は銘酒屋で働くおんなたちのために昼には営業を始めていた。


記事関連の写真

浅草 大黒や天ぷら

「きょうはお仲間さんは?」

そう聞きながらも、母はキャベツを刻む手を休めない。

「そうなの、あの子はお風呂に入れないからってさ、商売にもならないから浅草に出かけちゃった。浅草であちゃらかさんの映画見て、丸勢で天丼食べて帰って来るんだって。映画だったらここでだって見れるのに、東映のチャンバラはもう見あきたってよ」


わたしの家の前は変形の四叉路になっていて、斜交いに映画館がある。「玉の井館」は昭和の初めに寄席として誕生し、戦後は洋画の上映館に変ったが、洋画では客が呼べなくて2年ほど前に「玉の井東映映画劇場」と名を変えて東映の映画館になった。

古くは大河内伝次郎、鞍馬天狗の嵐寛十郎から知恵蔵、錦之介、橋蔵、千代の介に美空ひばりといったスターが勢ぞろいして時代劇映画の黄金時代のはじまりだった。このころ東映だけでも一年に100本近い映画が作られていたという。


平日はともかく、日曜祭日となれば通路までぎっしり埋まって満員御礼の札が下がり、あぶれた客が次の回を待って列を作っていた。冷房などなかった時代だったから、真夏のナイトショーともなると窓を開け放っての上映となる。

壊れた目隠しの板戸のすきまからスクリーンの一部が見えるところがあって、大の男が何人も背伸びをし顔を寄せ合って、ときには踏み台まで持ってきてのぞき見していることも見慣れた光景だった。


映画館の音は開け放した窓から窓へと筒抜けで、わたしはチャンチャンバラバラの賑やかな効果音と役者たちのせりふを聞きながら、ときには役者気分でいっしょにせりふを口ずさみながら眠るのだった。


「まぁ、豪勢だね、洋画に丸勢の天丼だなんて」

浅草には数えきれないくらいのてんぷらの店がある。丸勢はそのなかでも天丼しか出さない天丼一筋の老舗だった。


「でもさ、あの子ったらろくに漢字も読めないんだよ。漢字飛ばして字幕読んでたんじゃなにがなにやらわからないじゃないか。それでも洋画見てると自分が上等な人間になったような気がするからそれでいいんだってさ、そんなもんかね」


そうだねぇ、西部劇だってチャンバラだって似たようなもんだろうけど、と笑った母の口からのぞいた前歯の端の一本が欠けている。ついこの間仕入れに出かけて自転車ごと転んで折ってしまったのだ。みっともないから早く医者に行かなきゃと言いつつ、いっこうに行くようすがないのは、暇がないよりもお金がないからじゃないかと、わたしは気をもんでいる。


記事関連の写真

笛吹童子

「わたしは東映のチャンバラのほうがいいねぇ。わたしは知恵蔵が好きだよ」

「あら、おばさん、意外と渋好み。わたしはなんといっても錦ちゃんよ。『笛吹童子』よかったわぁ。世の中にはあんなきれいなおとこもいるもんなんだねぇ」


ローズさんが目の前にぶらさがったたわしを指先ではじきながら言った。たわしの束は生け捕りにされたぬきみたいに宙づりになってゆらゆら揺れていた。

「やだよぉ、ドーラン塗ってるからに決まってるじゃないの。あんなおとこがほんとにいるわけないよ」

「そうか、あんなのがここら辺歩いてたら、そりゃみんなびっくり仰天だ」

ハハハと笑ったとたん、欠けた歯の隙間からつばが飛んで、母はあわてて口をつぐんだ。


赤線で働くおんなたちの平均年齢は34歳か35歳だったそうだ。母もこのころは30半ばを過ぎたばかりだったから、中のおねえさんたちとほぼ同年、中には母より年上もいたかもしれなかった。が、母は年の違わないおんなたちから「おばさん、おばさん」と呼ばれてもいっこうに頓着しなかった。化粧っ気はいっさいなし、手ぬぐいを姉さんかぶりにかぶって、前掛けを掛けて、駄菓子屋の、もんじゃ焼屋のおばさんに徹していた。


母のキャベツ刻みは名人級だ。顔をあげて話しながら手だけは指先をひっかけることもなくすばやく動きつづける。そうやって多いときには一日に5個も6個ものキャベツを刻んでいる。


母にお金をもらっておいでと言われて、わたしは店に下りて百円札を受け取った。ローズさんににっこり笑いかけられて笑顔を返したつもりがふくれっ面のようにしかならなかった。

「おつりはいらないよ」

そう言われて、わたしはありがとうと言う代わりにぴょこんと頭を下げた。いつも悪いねェと母が言った。


「ありがとうくらいちゃんと口に出して言うもんだよ。まったく愛想なしなんだから」


母はわたしの内向的な性格と口の重さが気に入らない。わたしをこの家のおとうさんに仕立てて小さな大人の鋳型にはめ込んでしまったことはさておいて、こどもは天真蘭慢、愛嬌があるのがいちばん、かわいげのない子はひとに好いてもらえないとことあるごとにそう言う。


大人らしくしていることと天真蘭慢は両立しないのだ。今だったらそう異議申し立てすることができるけれど、こどもだったわたしは、「かわいげのあるこどもになれ、無邪気なこどもになれ」と言われるたびに、ただ茫然と途方にくれるしかなかった。

どうやったら母が言うような天真爛漫なかわいげのあるこどもになれるんだろうか。わたしはますますしょげかえって、百円札を手にしたまま店先に立ちすくむ。


が、しかし、反論できたとしてもやはり反論はしなかったろう。

母はほんとうによく働いていた。ちいさいこどもをふたり抱えて、駄菓子屋ともんじゃ焼き屋をひとりで切り盛りするのがどんなに大変なことだったか。


朝は5時半に起き出し、掃除洗濯をすませ、このころはもちろん洗濯機なんか無かったから、すべて手洗いである。朝ごはんの用意をしてわたしを学校に送り出し、一日一回はどこかしらに仕入れに出かける。

前にも書いたように、店には駄菓子の外、ちり紙やたわしや箒、せっけんといった日用雑貨もひととおりおいてあったから、仕入先は多種多様だった。

仕入れに行ってくるあいだの2、3時間は近くに住む伯母が店番として来てくれていた。

伯母が来ると母は超特急で自転車をすっ飛ばしてゆく。時には御徒町のお菓子横丁まで出かけてゆく。そこまで行くと3時間では戻れない。


父が亡くなるまで母は自転車に乗れなかった。伯父の手を借りて、父が使っていた業務用の重たい自転車に乗る練習をしていた母の姿を思い出す。大きくて重い自転車は母もろともガッシャーンという大きな音を立てて、アスファルトの上に倒れる。


母は「あっ」とも「きゃっ」とも声をあげず無言で倒れて無言で起き上がり、まさに歯を食いしばって自転車を建て直す。乗れるようにならなければ、仕入れにも出かけられず、商売は成り立たないのだ。母の手足はいつも痣だらけで、しまいにはあまり自転車をこぎすぎて、膝に水が貯まる持病持ちになってしまったほどだった。


白髭橋の坂は、荷物のない行きはいいけれど、仕入れたものを目いっぱい積んだ帰りは怖くてそのままは下れない。坂の上にいったん荷物を置いて、まずカラの自転車を坂下まで運んで、それから何度も往復して全部の荷物を運んで積みなおすのだそうだ。


そうやってひとりで荷物を抱えて坂を行ったり来たりする母の姿を想像するだけで、わたしは母が気の毒で申し訳なくて涙が浮かんでくるのだった。


もんじゃ焼きには昼の1時ころまでなかのおねえさんたちがやってきて、3時過ぎころからは小学生のこどもたちが、夜になると中学生たちでいっぱいになる。その合間には駄菓子を買うこどもたちや、日用品やちょっとしたおやつを買うおとなたちもやってきて、来れば必ずややしばし世間話に興じてゆく。母の自慢の太田垣の豆を買いにやってくる少し上等なお客もたびたびあった。


夕方には豆の袋詰め作業がはじまる。父がいた頃からの仕事だったかどうかはわたしにはわからないが、ちいさな三角形のセロファンの袋に豆なんかがはいっていて、なかにひとつおみくじ添えてあるのを作るので、もちろんわたしも重要な作業要員のひとりである。

その豆の袋を50袋か60袋か、その日の注文に応じて何軒かの銘酒屋に届けていた。もうけは一袋3円か4円、それでもわが家の貴重な収入源だった。


それを届け終わるとすでに6時半、お客さんの相手をしながら夕食の支度をし、7時には中学生たちがもんじゃ焼き屋に集まりはじめる。わたしたちは4畳半にまで上がりこんでくる中学生たちにおかずをのぞきこまれながら夕食をすませ、食器を片づけたちゃぶ台で宿題をすませ、部屋の隅に布団を敷いて眠るのである。


が、店は11時過ぎまで開けている。こんなところだから夜おそくまで人通りが絶えず、買い物に立ち寄るお客もけっこう多く、夜中の1時2時に硝子戸をガンガン鳴らして、たたきおこされることもめずらしくなかった。母はほとんど寝る暇もない。


そんなふうだったから、母がいくらわたしに不当な要求をしようが、母に異議申し立てをする気になどとてもなれず、わたしは出かかった涙をぐっとこらえて飲みこむしかなかったのだった。


母は刻み終わったキャベツを両手ですくい上げてボウルに移すと、パンパンと勢いよく音を立てて手のひらにくっついたキャベツの切れはしを払い落しながら立ち上がった。時計はもうすぐ3時になろうとしている。そろそろ学校から帰ったこどもたちが5円玉を手のひらにぎゅっと握りしめて駆け込んでくる時間だ。


と、思ったら、玉の井パラダイスのネオンのあたりから、こどもならぬもうすこし大きいおんなの子たちの歓声ともどなり声ともつかない声がバタバタと走る足音とともに近付いてきて、セーラー服姿の中学生の一団がわっとばかり店の中にひと塊りになって転がり込んできた。


「おばさん、おばさん、聞いて、聞いて、聞いて、もう、悔しいたっら!!!」

先頭を切って駆けこんできた多佳が甲高い声をさらに張り上げながら、カバンごと上り框に倒れこんだ。あとの4人が勢いあまって「きゃ〜」と叫びながらその多佳の上にのしかかった。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒