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玉の井パラダイス

2012年11月20日 更新

第12話 母の信念


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昭和23年に撮影されたという「三楽」というカフェの写真。前の道路はまだ舗装されていない。道路に出て客引きをしては行けないという決まりがあったので、おねえさんたちはこの戸口に立って客待ちしていたが、実際は外に出て無理やり客を引きこむようなこともあったらしい。


「おばさん、聞いてよぉ。ほんとにひどいったらないの、あのチャボのやつがひどいことを言ったのよ」


悔しさのせいか、4人の下敷きになった苦しさのせいか、多佳が顔じゅう真っ赤にして這い出しながら長いおさげ髪を振りまわす。目には涙さえためていた。


「そうなのよ、おばさん、チャボのやつ、絶対に許せない」


起き上がりながらつねちゃんが言う。


「ほんとに、あんまりよ、ぶんなぐってやりたいくらいよ」


スカートの裾を払いながらひいちゃんが言う。


彼女たちが憤怒の様相で口々に言うところによれば、今朝の朝礼で、チャボが全生徒を前にしてわが家のもんじゃ焼屋を、あそこは不良のたまり場だから行ってはいけないと言ったそうだ。

チャボというのは生徒指導の教員のあだ名だ。足が極端に短いうえにひょこひょこと首を突き出して歩く姿がチャボそっくりだからだそうで、わが家にやってくる不良たちの会話にしょっちゅう登場する「悪漢教師」だった。

ここでわたしが彼らをひとくくりに「不良」と呼ぶのは穏当でないかもしれない。中には窃盗や傷害で少年院送りになった、怒ると目が据わってしまって近寄るのが怖いような子もいるにはいた。

が、ほとんどは教師の言いなりにおとなしくなんかしていたくない、少しばかりいい恰好したいだけのふつうの気のいいこどもたちだった。おんなの子にしたって、ちょっとにぎやかなで活きがいいだけの、かわいげのある少女たちだった。

学生帽を斜めにかぶり、制服の上のボタンをひとつはずして、肩掛けザックをひっかけて、肩をゆすって歩けば、それでもう立派な「不良」なのである。彼らは彼らでそう呼ばれることをおもしろがっていた。

なので、わたしもここでは懐かしさと親愛の情をこめて彼らを「不良たち」と呼ぶ。悪さと言えば他の中学校の生徒と小競り合いを演じて、ときどき顔に青痣をつくってくるくらいがせいぜいだったが、集団でのけんかだけは母は本気で心配していた。

「いいかげんにしておきな。多少のことはしかたないけれど、本気になって怪我人でも出したら警察沙汰になるからね。そしたらそれこそほんものの不良になってしまう。中学生同士だったらまだしも、チンピラやくざにでも関わったらとんでもないことになるんだから」

玉の井には「楠木田組」というやくざがいて、このあたり一帯を仕切っていた。祭りともなるとふんどしひとつに法被をひっかけて、雪駄の音を響かせながら列を組んで我が物顔に歩き回る。法被の下は全身倶梨伽羅紋々(くりからもんもん)の総入れ墨で、映画だったら胸のすくようなカッコよさかもしれないが、実際は思わず後ずさりしてしまうほど恐ろしいのだ。

やくざにはやくざの信義というものがあるらしいからまだいいけれど、サメにくっついているコバンイタダキのごとくやくざにぶらさがって意気がっているチンピラは始末が悪い。いつどんな成り行きでチンピラどもの網にひっかかってしまうかわからない板子一枚の危うさは確かにあった。


「だいじょうぶだよおばさん。おれたちだってそのくらいの分別はあるからね。それにおれは殴り合いなんか大きらいだからさ、殴り合いになりそうになったら真っ先に逃げるんだよ。まず下駄を脱いで、振り上げる振りして、両手に提げて一目散に走るんだ。ほら、こんなふうにさ」

喜一が立ちあがって逃げるしぐさを実演してみせる。放課後の彼らの履物はもっぱら高歯の下駄で、それをいかにも得意げにカラカラ鳴らして歩いている。


「ほんとにキーチは逃げるのだけは速いからなぁ」

ほかの不良たちはそんな喜一のジェスチャーを見ながら大笑いする。


「おれは逃げたりしないぜ。腕っ節には自信があるからな」

こぶしを振り上げていきがっているのは相川くんだ。相川くんは俳優志望で、これからしばらくして、羽仁進監督の「不良少年」という映画に不良少年役で出演したのだった。


「ともかくも、喧嘩だけはおやめ。ほんものの不良になったらうちにはもう入れてやらないからね」

母は心配顔でそう繰り返すが、不良たちはそんな母の言葉を笑って聞き流している。チャボの「不良発言」の、その夜のもんじゃ焼屋は不良たち全員が集まってのケンケンゴウゴウの大抗議集会となった。が、いちばん怒ったのは母だった。

「冗談じゃない!」

目を吊り上げ、口の端をひんまげ、口角泡を飛ばして母は言う。


「不良、不良って、いったい誰のことを指して言ってるんだい。みんな自分の学校の生徒じゃないか。ここに来なかったら不良が不良でなくなるとでも言うのかい。教師がそんな料簡でいるから不良でない子も不良になってしまうんだ。

うちに来てる子たちにほんとうの不良なんかひとりもいやしない。この子たちはここにいるのがいちばん安全なんだ。ここにいる限り、悪いことに手を出したり、悪い奴らに引きずり込まれたりしなくて済むんだから。」


「いいよ、明日学校に行って、そのチャボとやらにかけ合ってくるよ。そんなことをおおっぴらに言われたんじゃうちの面目まるつぶれ、営業妨害もいいところだ。このまま黙って引き下がってたまるもんか。」

母のこの言葉に不良たちは「おばさんが、学校に殴りこみだ」と拍手喝さい。が、わたしは呆然だった。小学生になったばかりのわたしにとって学校は神聖犯すべからざるところであり、先生は絶対権力者である。その学校に殴りこみを掛ける? 母が? うちのおかあさんが???

母には、信仰と言ってもいいくらいの、ひとつの確固たる信念があった。それは「人間みなすべからく『善』である」というものである。

「世の中悪いことをする人間や心の曲がった人間がきりなくいるのは事実だけれど、誠心誠意心を開いて接すれば、かならずや通じる、もし通じなかったらそれは己の心の開き方がたりないのだ」という、よく言えば単純素朴、悪くいえば鈍感の極み、「あほくさ〜〜〜」な類のものであるがそのパワーたるや巌のごとし、まさに「信ずる者は救われる」のである。

母のその信念がどこから生じたものかはわからない。なにしろ年端もいかないころに父親に捨てられ、親類縁者の家にお留め置きとなって、「お前は牛や馬と同じ、飼ってもらってるんだからね」なんぞと心ないことを言われつつ、ろくな弁当も持たされずその家のこどもをおぶって学校に通い、夢にまで見た1泊の修学旅行にもついに行かせてもらず、小学校を出ると同時にタダ働きの女中奉公に出され、寒中、半分凍ったバケツで雑巾をすすぎ、その絞り方が足りないと、マキで手首を殴られるようなこともあったという。

そのときはさすがに親代わりのおじさんのところに駆け込んで、それっきりその家には戻らなかったそうだが・・・。

と、世をすね、世を恨んで当然の身の上だったのに、「雨露をしのげるだけでもありがたい、三度三度ごはんが食べられるだけでもありがたい、感謝、感謝」の日々である。

「人間みなすべからく『善』である」に「自分は間違ったことをしていない」が加わったらこれはもう最強、恐れるに足るものなどなにもない、千万人といえども我行かん。

かくして母はその翌日、放課後の時間を見計らって、威風堂々、まさに風を切って中学校に出かけて行った。

学校の門の前では、不良たちが20数人雁首並べて、母がやってくるのを今か今かと待ち受けていたそうで、不良たちが言ったように「学校に殴りこみ」か「やくざの出入り」の光景である。

鼻つまみの不良たちとしがない駄菓子屋のおばさんである母の「直訴」が学校でどんな扱いを受けたのかは、わたしにはわからない。が、それ以来「チャボ」が朝礼で「不良発言」をすることはなくなったし、不良たちがわが家にやってくることに変わりはなかった。おそらく、まあ、母の「誠心誠意こころを開けば」が功を奏したのでありましょう。

勝利の夜のわが家のにぎわいはそりゃあもう大変なものだった。いつもなら入れ替わり立ち替わりの20数人が一気に押しかけて来たのだから、3畳に満たないところにまさに足の踏み場もなく、座りきれないのは4畳半の居間に当然のごとく流れ込む。

「きょうはみんなわたしのおごりだ、思いっきり食べておくれと言いたいところだけれど、なにしろわたしもみんなにまけないくらいの貧乏人だからね、第一食べざかりのあんたたちが思いっきり食べ出したらキャベツが10個あったって足りゃしない。せめてもの気持で、みんな1ぱいずつ出血サービスということにするよ」

母がそう言うと、みんないっせいに「おおっ!!!」「きゃぁ!!!」と歓声を揚げ、おとこの子たちが被っていたり、手に持っていたりした学生帽を思い切り宙に投げ上げた。

投げた帽子のひとつが咲(さき)の顔に当たって、咲が「ぎゃっ!!!」と悲鳴をあげて、次の瞬間にはここぞとばかり大声を張り上げて泣き出した。

さて、ここではじめていもうとの咲が登場。生後3カ月で父親を亡くした咲は3歳になっていた。生まれたとき「この子、中身がみんな揃っているのかしら?」と周囲が心配したほど小さく生まれて、3歳になってもやっぱり小さいままで、咲はみんなから「ちび」と呼ばれている。

生まれてすぐ父なし子になった咲は「かわいそう、かわいそう」で、みんなから目いっぱい大事にされた。特に長屋の住人の亀岡さん一家は、5人のいるこどもの末っ子が小学校3年でみんな大きくなってしまったものだから赤ん坊の咲がめずらしくて仕方がない。長女がすでに二十歳を過ぎていて、おじさんおばさんの外に、おばあちゃんまでいるからあまりすぎるほど手が余っている。


咲が朝目を覚ますのを待ち構えて、かっさらうように連れて行って、朝ごはんから昼ごはん、時には夕ごはんまで亀岡さんの家で済ませて、寝る時間まで帰ってこないこともよくあった。

無料の私設保育所に朝から晩まで、しかも年中無休で預けているようなものであるから、こどもになどかまけている暇のない母にとってはまさに天の恵み、願ったりかなったりの幸運だった。

さらに亀岡さんのおじさんは大手のパン工場のパン焼き職人だったから、咲は時にはおじさんが工場から持ってきたB級品のパンをお土産に背負って帰ってくることもあった。

家をまた貸ししてしまったり、勝手に増築してしまうようなひどい店子がいる一方、亀岡さんのような恩人と言ってもいいような店子もいたのだった。

その他に、ひとブロック先に母方の兄一家も住んでいて、そこも末っ子がわたしと同じ年だったので、そこに行けば行ったでやはり咲は「ちび、ちび」とかわいがられている。

なので咲はどこにいても我が物顔で威張っている。なにごとにも遠慮勝ちの姉のわたしを姉とも思わず、この家でいちばん偉いのはわたしだとばかりふんぞり返っている。

で、このとき、帽子が顔にあたって咲が泣きわめいたのは、彼らの学生帽が前代未聞の汚ったない代物だったからだ。

彼らが「泥帽」と呼んでいるその学生帽は、彼ら不良たちのシンボルで、汚なければ汚いほどカッコイイのだった。ただ汚れているだけではだめ、たっぷり年季が入っていなければならない。うちにやってくると彼らはさっそく「泥帽」つくりにとりかかる。両手の空いているあいだじゅう、揉んだり叩いたり押しつぶしたり、形を変形させるのに夢中である。鍔は一枚の布きれみたいによれよれになり、あちこちほつれて中の芯がはみ出している。そのあげくにまん中のやわらかいところで鼻をかむ。鼻汁が半乾きになるころ合いを見計らって学生服のひじやズボンのひざにあてて、シャッ、シャッと音を立てて磨く。そんなことを何度もクリア絵していると、その部分だけ妙な光沢を帯びてくる。気分が悪くなるようなそのテカリ具合が、彼らにはなんとも言えずいいのだという。

「おい、これで鼻かんでいいぞ」

なんぞと帽子を差し出されると、わたしたちは悲鳴をあげて逃げ回った。

そばに寄せられるだけで身震いするほどのものが、顔のまんなかに飛びかかってきたのだから、大泣きするのも無理はない。しかもそれはなかでもとびきり汚くて臭い、古石くんの「泥帽」だったんだから。

「まったく、あんたたちの帽子は黴菌の巣だね。そんなものここに持ち込まないでおくれよ。病気になってしまうよ」


母が冗談まじりによくそう言っていた。

「バイキンがくっついたぁ、びょうきになっちゃうよぉ、バイキンがくっついたぁ」咲はここぞとばかり大声を張り上げて泣きつづける。「あぁあ、たいへんだぁ、ちびを泣かしちゃって。こいつが泣き出すとどうしようもないんだから。古石、おまえ、全責任取って、なんとかしろよな」

まわりの連中はおかしがって大笑いしてるが、古石くんはそれどころではない。赤くなったり青くなったり、冷や汗をかきながらなんとかなだめすかすが泣きやまない。大柄でいかにも不器用そうな古石くんがもたもたあたふたしている様子がおかしくて、みんなはさらに大笑いする。

咲は極め付きの大泣き虫で、いったん泣き出すと、一時間でも二時間でも延々と、それも半端じゃない大声で泣きつづける。


不良たちでいっぱいの狭い部屋に、もんじゃ焼きの温かいおいしそうなにおいがたちこめている。とりわけ今夜はもんじゃ焼き一杯ずつの大祝宴だ。かれらの陽気で楽しそうな笑い声に、咲の泣き声が伴奏のように鳴り響く。不良たちはときには11時過ぎまで居座ってわいわいがやがやおおさわぎしている。どんなときでも小さい咲はすぐ寝てしまうけれど、わたしはなかなか眠れなくて、布団をかぶって半べそをかいているようなこともよくあった。

それでも、その夜は不良たちのあいだにぎゅうぎゅうに挟まれて彼らといっしょにお腹を抱えて笑いこけながら、もんじゃ焼き屋のこどもでよかったと思っていた。

不良のたまり場だの、パンパンのたまり場だのと言われて情けない思いをしたことなど、どこか片隅に吹っ飛んでしまっていた。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒