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玉の井パラダイス

2012年12月5日 更新

第13話 磁石のような多佳と喜一


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長屋を背景に。おかっぱ頭に下駄履き、まさに昭和の子である。わたしはたぶん5歳、ということは父がこれを手に入れた翌年の写真である。このときすでにこんなボロだったのに、なんと30年以上このまま建ちつづけたのだ。


どんなグループにも中心となるリーダー的存在、花形役者というのがいるものだ。わが家の不良たちにも、花形がいた。おんなは店先に飛び込んできた多佳、おとこは下駄をかかえて逃げ出すという喜一だった。


主役というのは美男美女が定番であるものだ。

多佳は通りすがりのひとが思わず振り返るような大づくりのはっきりした顔立ちの美少女で、多佳が入ってくると、ぱっとあたりあかるくなる、そういう華やかさを持った少女だった。

わが家の不良たちの中ではとびきり勉強ができて、しかも、「よし川」という、このあたりでは名の知れた料理屋のむすめだった。


器量よしで頭がよくて裕福な家の子と三拍子そろった、よそ目には文句なしの境遇だったけれど、多佳には多佳の不幸があった。

3歳の時、女将として店を切り盛りしていた母親に2人目のこどもが生まれることになって、疎開を兼ねて多佳は田舎の親類の家に預けられた。

戦後のドタバタと、先方がなかなか多佳を手放したがらなかったこともあって、自分の家に戻ってきたときには多佳は10歳になっていた。7歳、5歳、4歳と3人のいもうとが生まれていて、多佳を抜きにしたひとつの家族の雰囲気ができあがっていた。


自分の家に自分の居場所がない、自分だけのけものにされたと感じながら大きくなった多佳は、当然のことながらそうとうひねくれた一面があった。


多佳のひねくれ方は内側に向かわず、もっぱら外側に向かって、何事にも常にけんか腰で、学校でもしたい放題言いたい放題。ついこのあいだも、家庭科の教師に平手打ちを喰らわせたそうだ。「うるせえな、このクソババア!」

そう声を張り上げたなり、多佳は椅子から飛び上がって、ありったけの力を込めてバシッとぶん殴ったのだそうだ。まさに不良の真骨頂である。


「まさかほんとに殴るとは思わなかったけど、かっこよかったわぁ。おかげですかっとしちゃった」

おんなの子たちに言わせると、小言と嫌みの塊のような教師で生徒たちの憎しみを一身に集めている人物なのだそうだ。

彼女たちは拍手喝さいで多佳を英雄扱いしているが、親は学校に呼び出されるは、始末書を書かされるで大騒ぎだったらしい。


「うちのばばあなんか、学校から帰ってくるや大泣きして、ばかばかしいったらありゃしない。泣き過ぎて目がこ〜〜〜なに腫れあがっちゃってさ、まるで酔っ払った狸よ。ほんと、ざまあみやがれってんだ、ハハハ、いい気味だ」多佳は大きな目をさらに見開いて、知ってる限りの悪態を並べたてる。

その多佳にとって、わがもんじゃ焼き屋はどこよりも居心地のいい場所らしかった。通学路から外れているのに遠回りして立ち寄って、「おばさん、行ってくるね」「おばさん、ただいま」と声を掛けてゆく。

ときには「わぁ、大変だぁ、遅刻だぁ」と息を切らして駆けて来ることもある。まっすぐ行けばいいものを、立ち寄らないと大事な忘れ物でもしたような気になるらしい。

母は開けっぴろげで、ほがらかで、気風のいい、そんな多佳がことのほかお気に入りだ。「口の悪いのが玉に傷だけれど、ひとなつっこくて元気で、ほんとうにいい子だよ」

三つ編みにしたお下げをぴょんぴょん勢いよく跳ねとばしながら駆けてゆく多佳を母は目を細めて見送っている。

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喜一はといえば、日本人離れの彫の深さと、こころもちしゃくれたあごといくぶんウエーブがかかった髪とで、アメリカ俳優のジェームス・ディーンに似ているといっておんなの子たちに騒がれていた。びっきらぼうで照れ屋で、いつも怒ったような顔をしているけれど、ほんとうはとても優しいこころ根の持ち主で、わが家にやってくる不良たちの中で、わたしはこの喜一がいちばん好きだった。

おんななら多佳ちゃん、おとこならきいっちゃん、わたしにとってもこのふたりは特別に光り輝く存在だった。


そして、これもありがちなことだが、ふたりはお互いにこころ惹かれていた。もちろんふたりは全面否定で、顔を合わせばけんかばかりしている。

喜一は目の大きな多佳を「デメキン」と呼び、多佳は多佳で「なんだい、この引っこ目のしゃくれおとこ」と言い返す。


「喧嘩するほど仲がいい」なんて冷やかされたりすると、「あんな奴、誰が好きなもんか」とふたりしてむきになって怒りだす。


中学の卒業式で、多佳は校舎の二階の窓から、喜一めがけてバケツの水を一杯ざぶんとぶちまけたのだそうだ。「あのときのやっこさんの顔ったらさぁ、ふだん引っ込んでる目が、ぶわあっと飛び出しちゃって、ああ、おかしい。おばさんにも見せてやりたかったよ、おもしろいったらありゃしない」多佳は帰ってくるなりさっそくご注進で、得意満面で大笑いである。「ひどいわよね、あんまりよね」

ひいちゃんたちおんなの子は喜一に同情するが多佳は平気の平左だ。


「まっ、ほんとにひどいことするもんだ、かわいそうに。それできーちゃん、どうなっちゃったの?」

さすがの母もあきれ顔だ。

「知るもんか。ものすごい剣幕で追いかけて来たけど、こっちだってあんなずぶぬれおとこに捕まっちゃたまらないもの。ばかだよねぇ、やっこさんも。水をまきちらしながら廊下を走り回って、チャボにとっつかまって、さんざん絞られたらしいよ。まぁ、卒業式は 終わったあとだったから、そんなに困る事もなかったんじゃないの」

多佳は喜一だけを特別に「やっこさん」と呼ぶ。それが多佳の喜一への思いの、ひねくれた表し方だったようだ。


ひいちゃんたちの話によれば、ずぶぬれになった理由をついにチャボに白状しなかったそうだ。そこが喜一のいいところだった。

夜になってやってくると、喜一は多佳をちらっと見て「バカヤロー」とだけ言った。多佳はぺろっと舌を出して知らん顔である。「まったく多佳ちゃんにも困ったもんだ」母がやれやれとばかりため息をついた。

わが家のもんじゃ焼きの不良たちの中には多佳のような恵まれた家の子もいくらかはいた。藤沢くんの家は何人もの工員を抱えた工場をやっていたし、吉田くんの家は銘酒屋で羽振りがよかったし、小沢くんに至ってはなんとおとうさんが警察署の署長だった。が、大部分は貧しい家の子で、特にこのあたりのこどもたちで中学から高校に進む子は少なかった。

それでも、彼らなりの将来の夢はあった。

相川君の夢は俳優になることだったし、ひいちゃんはちいさなレストランのオーナーになることだった。たくさんつくるのは大変だから、10人くらいしか入れない、ちいさな、ちいさなレストランでいいそうだ。

大柄で不器用な古石くんは鉄道員になることだったし、所長の息子の小沢くんは別格で、当然大学まで行くように位置づけられていて、おとうさんの上をゆく腕利きの刑事になることだった。腕利きの刑事になるはずの息子が仮にも不良と呼ばれているグループの一員というのは、親にとっては許すべからざることだったろう。

ある日母が「おかあさんは心配してないの?」としつこく問いただすと、はじめは「そんなことない」と言っていたのが実は「すごく心配している」と白状したので、母はまたまたさっそく小沢くんの家に出かけて行った。

母が心配だったのと野次馬根性もあって、わたしも付いていった。小沢くんの家は警察署の裏手の立派な官舎で、出てきたおかあさんというのがとてもきれいでやさしそうなひとで、家の中でも外出着のようなきれいな着物姿だった。


「うちは不良のたまり場だ何ぞと言われていますが、うちに来ているこどもたちはみんなとってもいい子で、わたしがちゃんと監督してますから、うちにいる限り心配されるようなことはいっさいありません。もし、ご心配でしたら一度ようすを見に来て下さい」

母がそう言うと、ひとりっ子の彼を心底心配している様子で、必ず伺いますとい言い、すぐその翌日、父親までいっしょに昼間誰もいない時間に手土産を持ってやって来て、さらに不良たちが集まっている夜に、窓越しにそっとのぞいて帰って行った。

小沢くん自身は、みんなのあいだに混じってただにこにこ笑っているだけで、どうして彼が不良たちのなかまに加わっているのかわからないようなおとなしい子だった。たぶんきっと両親と自分だけのひっそりした家にいるより、もんじゃ焼き屋の喧騒にまぎれているほうがずっと楽しかったのだろう。


その後も小沢くんがわが家に来つづけていたところを見ると、わがもんじゃ焼き屋は合格点を付けてもらったのかも知れなかった。


夢の話に戻ると、われらが喜一の夢は船乗りになることだった。船に乗って世界の海をめぐっていきたいのだそうだ。喜一の夢がどこから来たものなのかは知らないが、もんじゃ焼きの湯気がもうもうと立つ中で、喜一はよく海と船の話をした。


「いいよなぁ海は。船乗りこそおとこの仕事って感じがするよなぁ」


夢の中での喜一の船は帆船である。「ヨーソロー、ヨーソロー」と掛け声をあげながら喜一は帆を巻揚げる。帆のてっぺんに立って360度一面の海を腕に抱く。「なんだい、ヨーソローって、おまえいつの時代の船に乗ってるんだよ」

相川くんがにやにや笑いながらまぜっかえす。

「おまえ知らないの? ヨーソロってのは『よろしくそうろう』って意味でさ、いまでもちゃんと使われてんだぞ」

「へ〜〜〜、『よろしくそうろう』じゃ、やっぱり市川歌右衛門、チャンバラ時代劇だ」

「うるせぇ、おまえはどっかの埃くさい撮影所の大部屋でくすぶってろよ。おれは世界の海を股にかけて、ほんものの船乗りさ」

「笑わせるなよ、おまえなんか隅田川のポンポン蒸気のケツでも洗ってるのがせいぜいだってのさ」

「なんとでも言ってろ、ばかやろ」


俳優志望でかっこいい不良を自任している相川くんにとって、喜一は究極のライバルで、たがいに牽制しあいながら、けっこう仲よしでもあった。


喜一は得々として腰に下げたロープを取りだす。父親の知り合いの船員から譲り受けたものだそうで、長年の使用に耐えて、磯のにおいがたっぷりしみ込んで黒ずんだロープは半分に千切れた廃棄品だったが、喜一には何より大切な宝物で、いつも腰にぶら下げて歩いていた。

喜一は「泥帽」つくりには参加しない。その代わりそのロープで「ロープワーク」というものをはじめる。

ロープワークというのはロープの結び方の技法のことで、船を岸壁につなぐとき、輪っかに通すとき、船と船とを結ぶときなど、目的によって無数の結び方があるんだそうだ。

「これがもやい結び、これがかめ結び・・・」


大きくてすらりと長い指を持った喜一の手の中で、ロープはまるで生きているようにくねくねと動いて、あっという間に固い結び目に変わる。いったん結んだロープは堅牢でどんなふうにしても決して緩まないのに、いざ解くときには、うそのようにするりとほどけてしまう。「てんぐ結び」「かえるまた結び」なんておもしろい名前の結び方もあったが、じっさいは「てんぐす結び」「かえりまた結び」の聞きちがえだった。

海の真ん中で潮を吹くクジラ、南の海にいるという何メートルも時には十数メートルもある凶暴なタコやイカ、水面に三角のヒレを立てて音もなく忍び寄ってくるサメ、波間に浮かぶ無人島、ヤシの木、海の底に沈む海賊船、夜の海を漂う幽霊船、鏡のように凪いだ海、荒れ狂う海。海の話になると喜一はとたんにおしゃべりになる。喜一の話はいつまでも終わらない。


「いつかみんなをおれの船に乗せてやるよ」自信満々に喜一が言う。

「ふふふ、おれの船だってさ」と誰かが笑う。「おれはだめだ、船なんてすぐにゲロ吐いちまう」

図体のデカイわりに気のちいさい古石くんは、話を聞いているだけで気分が悪くなってくるらしい。

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「乗せて、乗せて、ぜったい、乗せて!」咲が喜一の背中にどんと飛び乗って言う。「わたしも乗りたい」とわたしが言う。喜一が船長さんの船に乗ったらどんなに楽しかろうと思う。「ほんとうに船長さんになってね」とせい子ちゃんが言う。「みんなでハワイに行きたいなぁ。ハワイに行ってフラダンスを踊るの」「やめてくれぇ、つね子のフラダンスなんか見たくねぇ」藤田くんが瀕死のカエルみたいに床にひっくりかえってもがいてみせる。

この当時、外国と言えばハワイがその代名詞で、「憧れのハワイ航路」が発売されたのは昭和23年、映画になったのはつい最近のことだったが、外国に行くなどとは庶民には夢のまた夢どころか、一生働きつづけても手の届かない雲の上の世界だった。

「ほら、見て、見て。イルカってさ、こんなふうに海の上を飛ぶんだよ」

喜一は自分の手をイルカに見立てて、ひょいひょいと飛ばして見せる。イルカは海面から勢いよく飛び出しては軽々と身をくねらせながら空を泳ぎ「どぶ〜〜〜ん」と擬音つきで海の中に落ちてゆく。


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「イルカだけじゃない、クジラだって見れるぞ。それからトビウオだっていっぱいいるんだ。トビウオはイルカみたいに跳ねるんじゃなくて、ほんとうに飛ぶんだ、ヒレを鳥みたいに広げて、すいすい20メートルも30メートルも、時には100メートル以上飛ぶことだってあるんだぞ」


おんぼろのもんじゃ焼き屋がそのまま一艘の船になって、イルカやクジラやトビウオの群をかきわけながらずんずんとわたしたちをハワイまで運んで行った。喜一の船に乗ってみんなでハワイに行く、なんとすばらしい夢だったことか。


歳頃の中学生のたわいのない夢と言えば夢であったが、ちゃんとした船乗りになるにゃあ、高校くらい出ておかなきゃ、そう言って喜一の父親はずいぶん無理をして高校進学の費用を用立てくれたのだそうだ。あまり勉強が得意でなかった喜一は都立高校は望めない。玉の井あたりのふつうの家庭でこどもを私立に行かせるのはたいへんな負担だった。

多佳はと言えば、「夢なんて、そんなもの、あるわけないじゃないか」とふてくされている。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒