玉の井のお祭り。法被にねじり鉢巻き。1度こんな恰好をしてみたかったのです。
山車の上で叩く大太鼓の音が今にも聞こえてきそうな気がして、針を動かす母の手を見つめながらわたしは気が気じゃなかった。
「ごめんねぇ、もうすぐ終わるから」下着のままわたしは障子戸から顔だけ出してふさちゃんに声をかけた。店の外ではふさちゃんが口を一文字に結んで辛抱強く待っている。
咲がつんつるてんのゆかたを着て自分の足よりひとまわりもふたまわりも大きい下駄をカタカタ鳴らしながらふさちゃんの周りを飛び跳ねていた。そのたびに黄色い咲の三尺帯が咲のちいさな背中で大げさに揺れた。
こどもたちがつぎつぎ足早に通り過ぎてゆく。白髭神社のお祭は墨東地域で先陣を切って行われる最初の夏祭りで、向島の夏はここから始まるといわれている。今年は各町会のおみこしのほか、神社神輿が出される3年に1度の本祭りだ。
さらに今回は十数年に一度の特別な年回りで、馬にまたがった神官の行列まであるそうで、準備からして熱の入れようがちがっている。
一ヶ月も前からお神酒所が出来てお囃子の稽古がはじまった。商店街にしめ縄が張られ、提灯が下がってお囃子が聞こえてくると、町中は早々とお祭り気分になった。
「まさかふたりそろってこんなに背が伸びてるなんて思ってもみなかった。こんなことなら夕べのうちに着せてみておくんだったよ」
わたしも咲も去年より数センチずつ伸びていて、いざ着てみたら袖も着丈もすっかり短くなっていた。ふたりぶんのおはしょりを直してる時間はなかったので、咲の方はそのまま着せてしまった。
「来年はあんたの分だけでも新調しなくちゃ。次はもう本仕立てかね」
とりあえず止まっていればいいんだからと、母はわたしのゆかたのおはしょりをおおあわてでざくざくと縫い上げてゆく。
新しく作ってくれるなら咲とおそろいの、こんなこどもっぽい金魚のなんかじゃなくて、ふさちゃんみたいな今風の花模様にしてほしい。
呉服屋のこどものふさ子は水色の地にひまわりを散らした真新しいゆかたに、これも真新しい茄子紺色の三尺を締めている。
あれはきっと今年の新柄で、ふさちゃんと並んだら今年で三年目のじぶんのゆかたはさぞ色褪せて見えることだろう。
でも、ぜいたくは言えない。古着のゆかたさえ着せてもらえない子がこの近所にはいっぱいいることはわかっている。
「ねぇ、どうしても咲を連れてかなきゃだめ? 咲、ぜったいに泣くよ、途中で。足が痛いとか、疲れたとか言って」
ふだんはおねえちゃんなんか大きらいだとか言ってるくせに、こういうときだけくっついて来たがるんだから。さっき亀岡さんのおばちゃんが連れに来てくれたときにいっしょにいけばよかったのに。足手まといになる咲がいっしょじゃちっとも楽しくない。
「亀岡さんのおばちゃんをみつけて預けちゃったらいいさ」
「でも、もし、いなかったら?」
「いるさ、さっきみんなで出かけて行ったもの。線路の手前あたりで御神輿が来るのを待ってるんじゃないかい。さっ、できあがったよ」
おはしょりの糸目を指先できゅっきゅっとしごきながら母が立ちあがった。
「おとうさんが死んだ時は、あんたたちをゴムみたいにひっぱって大きく伸ばすことができたらどんなにいいだろうってよく思ったものだけど、心配ないもんだねぇ。ちゃんとこうやって大きくなっていくんだもの」
わたしに浴衣を着せかけて胸元を合わせながら母が言う。「わたしたちをゴムのように伸ばせたら」というせりふはこれまで何度も聞かされた。4歳と生まれたばかりのこどもを残された母の心労がそれだけ大きかったということだろう。
ともかくも母のいちばん大変な時期はどうにか過ぎたようだ。このあいだ誕生日が来て、わたしは8歳に、咲ももうすぐ4歳になる。
くるくる巻きつけた三尺帯をギュッっと締めあげられて、わたしが「クルシイッ」とうめいた。息が詰まって頭に血が上った。これくらいきつくしておかないとすぐ着くずれちゃうんだから、そう言いながら母はさらに力を込めて帯を結んだ。
「下駄はやめてサンダル履いていきな。そうしないと連れてってやらないよ」
ゆかたと帯の間に手を入れて、きつすぎる帯をゆるめながら咲に声をかけると、咲はめずらしくすなおに「はあい」と答えて下駄を鳴らしながら店の中に駆け込んできた。
咲は今でもほかの同じ年のこどもよりひとまわり小さくて、今履いているわたしのお下がりの下駄も、下駄のほうがかかとより5センチもよぶんに余っている。
それでも咲なりにおおきくなっているようで、去年まで履けていたかかとにゴムがかかった幼児用の丸下駄は履けなくなっていた。
「サンダルはやだぁ、サンダルだってもうきついもん」
「しょうがないからいつものゴム靴にしておきな」
「そうだよ、靴だったら足も痛くならないし」
母とわたしに言われて、今度は咲もすなおにうんと頷いた。
蝶々結びにした帯の形を整えて、白地に赤で「玉の井町会子供会」と書いたうちわを帯の間に差し込んで、わたしの支度はできあがった。
「あっ、おかあさん、お神輿はいっしょに見に行くでしょ?きいっちゃんたちもかつぐんだよ」
下駄をつっかけて外に飛び出しながら振り返って母に言う。
山車は午前中、神官の馬行列と御神輿は午後からということになっていた。
「そうだね、お店をしめてちょっとだけでも見に行ってやらなきゃね」
中学を出ると中神輿は卒業しておとな神輿を担ぐようになる。神輿なんかただ疲れるだけじゃないかとしらけている子もいたが、喜一たち何人かは神社の出発から最後まで担ぐんだと張り切っていた。
「おかあさんも浴衣着て行こうね。うちわも持ってさ」
やっぱり浴衣にうちわがなきゃお祭りの気分が出ない。
「わかったよ、気をつけて行っておいで」
母の声を背中で聞きながら、わたしは咲の手を引いてふさちゃんといっしょに小走りに商店街に向かって走って行った。
山車は玉ノ井町会を一巡するあいだに数回の休憩があって、その度にキャラメルや袋菓子がふるまわれる。それが山車を引くこどもたちの楽しみのひとつだった。中にはほかの町会にまで遠征して、お菓子を大量に仕込んでくるこどももいた。
白髭神社を出発した神輿や山車は東武線の踏切を境にして向島町会から玉の井町会に引き継がれる。本祭りには子供神輿が二基出るけれど、神輿を担ぐのはおとこの子と決まっていたから、わたしたちおんなの子やちいさいこどもは山車を引く。
山車が踏切に着く前に行って待っていないと、途中からの割り込みはいかにもお菓子狙いのように見えてなんとなくかっこう悪い。
太鼓とお囃子の音がどんどん近付いてくる。踏切まで一散に駆けてゆくと山車がちょうどついたところだった。人混みをかき分けて亀岡さん一家の姿をさがす。はやく亀岡さんに咲を預けてしまわないと。
亀岡のおばちゃん一家、おじいちゃんおばあちゃん、おじちゃんおばちゃん、それとまん中のおねえちゃんの辰江ちゃんは踏切際のいちばん手前に陣取っていた。
「おお、お咲も、来たか、来たか」
咲を見つけると、おじちゃんが駆け寄ってきて咲を抱きあげた。小柄で軽い咲はひょいとおじちゃんの肩にかつぎあげられた。おじちゃんはもうお酒をのんだらしく、ふだんから赤い頬がいっそう赤くなっている。パン焼き職人のおじちゃんはいつも焼き立てのパンの匂いがする。色が白くてふくふく太っているおじちゃんは、おじちゃん自身がパンのようだった。
「おとなばっかりで山車に付いて歩くのもかっこわるいよなぁ。お咲がいっしょでなきゃなぁ」
おばあちゃんが咲の手を握ってそう言った。
「おや、お咲、ゴム靴なんか履いて来て。下駄持ってなかったのかい?」
おばちゃんが咲の足を見て言った。
「咲の下駄はもう小さくて履けなくなっちゃったし、わたしのお下がりじゃまだ大きすぎて履けなかったの」
わたしがそう言い訳をする。
「辰江がちいさいころの、ほら、桐の上等なやつ、どこかにとってあったよね。あれをお咲にあげようか」
「あったかねぇ」
「あったよ、押し入れの行李の中にでもつっこんであるんじゃないか」
お囃子に合わせておじちゃんがホイホイと足踏みをはじめた。おじちゃんの肩の上で咲のおかっぱ頭が揺れている。亀岡一家に至れり尽くせり大事にされている咲を、ときどき羨ましく思うこともあったが、こういうときは好都合だ。
「ふさちゃん、行こう」
わたしはふさちゃんの手を引いて走り出す。咲の気が変わらないうちにさっさと姿を消してしまわなきゃ。
山車はしゃんしゃんと拍子木に合わせて手打ちをして、玉の井町会に引き渡されるところだった。この後ほぼ1時間かけて山車は玉の井町会内をひとまわりする。
履きなれない下駄のせいで痛んだ足を引きずりながらふさちゃんと手をつないで、啓運閣の境内に並んだ屋台をひとつひとつのぞいて歩く。
ゆかたの袂には山車を引いてもらったお菓子がたっぷり入っているし、胸の打ち合わせにしのばせた小銭入れにはお祭りのために母から特別にもらった30円が入っている。水飴もいか焼きも当てくじもたいがいのものは5円で買えるから30円はけっこう使い出があった。
「ふさちゃん、いくら持ってきた?」
お菓子でふくらんだ袂を揺すりながらわたしが聞く。
「30円」同じく袂を揺すりながらふさちゃんが答える。わたしは「あつ、おんなじ」とちょっとホッとして言う。
ふさちゃんのほうがきっと多いと思っていた。ふさちゃんにはずっと年のはなれた兄と姉がいる。兄は20歳を過ぎていて家の呉服屋を手伝っているし、姉は今年高校を卒業して八十八銀行という変わった名前の銀行に就職した。
ふさちゃんは両親のほかに兄や姉からもお小遣いがもらえるのだ。わたしにもいもうとなんかじゃなくておにいさんかおねえさんがいたらよかったのに。
山車の終点でラムネを飲ませてもらったので喉は渇いていない。綿菓子屋の前で立ち止まり、蝶や孔雀のみごとな飴細工に見とれ、イカを焼く醤油のにおいをかぎ、ふたりでさんざん迷ったあげく文化揚げをひとつずつ買った。
文化揚げは厚さ五ミリほどに伸ばしたメンチカツのようなもの。中身は不明だけれど揚げたてはさくさくしてなかなかおいしいのだ。五円玉をわたすと、白いかっぽう着をかけたおばさんがその上にたっぷりソースを振りかけてくれた。
「金魚釣り、やってみない?」
文化揚げをほおばりながら金魚釣りのたらいの前で足をとめた。
「う、ん、うち、猫飼ってるから金魚釣れてももらっていけないし」
ふさちゃんが口に付いたソースを手の甲でぬぐいながらすまなそうに答えた。ふさちゃんの家にはたまちゃんという大きな猫がいる。そろそろ二〇年は生きているそうで、しばらく前行方不明になって、一年くらいしたらふらっと戻ってきた。どこでなにをしていたのかはもちろんたまちゃん自身しか知らない。
そうか、金魚釣りは夜の楽しみにとっておこう。夕飯をすませたら喜一が白髭神社の縁日に連れて行ってくれることになっていた。白髭神社の縁日のほうが啓運閣なんかよりずっと屋台も多くてにぎやかだ。
喜一は金魚すくいの名人だ。紙が破れて枠だけになってしまっても、輪っかのはじっこにひっかけてひょいひょいといくらでもすくいあげてしまう。
喜一がいっしょだったら10匹でも20匹でも釣れるに違いない。それに喜一は射的もうまい。射的屋のおじさんが大損してしまうくらいいくらでも打ち落としてしまう。
古本屋のござの上にしゃがんでしばらく雑誌の付録を物色したあとふさちゃんと別れて家に戻るとちょうど12時半になっていた。
山車を引いたごほうびのお菓子があっても、駄菓子は駄菓子なのだろう。わが家の店先もこどもたちがいっぱいで母はいそがしそうにお釣りを数えていた。
めずらしく咲が戻って来ていた。下着のシャツ一枚の姿で頭にセルロイドのぺこちゃんのお面を乗せて、咲はひとりでそうめんをすすっていた。
啓運閣の屋台にお面やさんも出ていたから、亀岡のおじちゃんかおばちゃんに買ってもらったにちがいない。ちゃぶ台にはわたしがもらったのと同じ数だけのお菓子が並んでいた。
「このお菓子はわたしのだからね。おねえちゃんにはあげないよ」
そうめんをくわえたままの口で咲が言う。
「いいよぉ、わたしだっておんなじの持ってるからね。それに文化揚げだって食べちゃったもんね」
咲に向かって大きく口を開けて見せた。吐いた息のなかにほんのりソースのにおいがまじっていたが、もちろんもう文化揚げは口の中のどこにも残っていない。
「文化揚げよりわたしのほうがいいよ。おばちゃんのとこでクリームパン食べてきたし、お面だって買ってもらったもん」
咲はちびで泣き虫のくせに口だけは達者で、ほんとうに生意気なんだから。
「へん、そんなお面、くれるって言ったっていらないよ」
ぱたぱたと袖を振ると、キャラメルとチューインガムとビスケットとお煎餅とラムネ菓子が音を立ててちゃぶ台の上にこぼれ落ちた。