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玉の井パラダイス

2013年1月20日 更新

第15話 すずの恋心


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二基のおとな神輿が玉の井町会に引き渡されると、そのうちの一基はおんな神輿に代わる。おんな神輿は玉の井のお祭りの呼び物のひとつで、これを見るためにわざわざ遠方からやってくる物好きもたくさんいて大にぎわいだ。

にぎやかな掛け声と、拍子木の音と、それをとりまく見物人の熱気につつまれて神輿が踏切を越えると、待ち構えていたおねえさんたち2、30人が「おうっ」という掛け声とともにいっせいに神輿に駆け寄ってゆく。

銘酒屋で働くおねえさんたちはおよそ数百人、そのなかにはもろ肌脱いで衆人の目にさらされながら神輿を担ごうという威勢のいいおんなたちもいたのである。いったん台の上に降ろされた神輿はおねえさんたちに担がれて勢いよく立ちあがる。

みこしの上に乗った金色の鳳凰が時を告げるようにすくっと空に伸びあがり、周りにちりばめた金細工が日を受けてきらきら輝く。日ごろのうっぷんを晴らしでもするようにおんな神輿はどの神輿よりも威勢がいい。

胸にさらしを巻いて白い鉢巻きをきりりと締めあげ、なかには法被もはおらず白い肩をむき出しのおねえさんもいる。めったに日に当たることのない彼女たちの生白い肌がうっすら赤く染まりはじめる。


入れ墨のおんながふたり、生白い若い肌にまじっている。ひとりは弓場のおばさんでもうひとりは「爆弾ねえさん」だ。弓場のおばさんの背には弁天様が、爆弾ねえさんの背には酒纏童子が彫られている。

ふたりとも40近い年頃で、弓場のおばさんとはときどき銭湯でいっしょになる。うしろに回ってこっそり見ると、ふつうの人間よりひとまわり小さい弁天様の顔はまるで生きているように額のあたりから汗をふきだしている。

紙に書かれた絵とちがって、入れ墨の弁天様はひとの皮膚を持っていて、おばさんの動きにつれて、ゆがんだり伸びたり、赤くなったり白っぽくなったり、まさに背中に別の生きものを背負っているように見えた。

戦前の玉の井は自治会が自主管理していたそうだが、「新玉の井」は自治会はあるのはあったが、実際は新興やくざの楠木田組の支配下にあった。40になるかならないかの若い親分は「新玉の井」の一等地に銘酒屋やキャバレーを何軒も持って、20人30人の子分を引き連れて派手に暮らしていた。

爆弾ねえさんは楠木田組の奥さんの後見役と用心棒だ。いかつい顔の大おんなであたりかまわず野太い声でどなりちらすのでこのあだ名がついた。下っ端のやくざなど爆弾ねえさんにかかってはひとたまりもない。

どこからかねえさんの怒鳴る声がすると、ああまたチンピラが怒られているなと思う。どんな事情でやくざの奥さんになったのかわからないほっそりときゃしゃな奥さんに、爆弾ねえさんはいつも守護神のようにぴったり寄り添っている。

お神輿を担ぐ前からおねえさんたちはすでにそうとう酔っていて、ワッショイともヨッシャとも聞こえる奇声を張りあげて、バスがかろうじてすれ違えるほどのいろは通りを右へ左へと危なっかしく進んでゆく。大柄な爆弾ねえさんが担いでいる一角だけ斜めに傾いている。

ときには勢いあまってそのまま両脇に並んだ店の中に突っ込んでしまうこともある。見物人の黒いあたまがおんな神輿の動きに合わせて波のように膨らんだり縮んだりしている。こどもたちが面白半分に叫びながら逃げまわる。先頭を行く大神輿はおんな神輿の勢いに気おされていまひとつ気勢があがらない。

「おおい、おんな神輿になんか負けるなよ」見物客のあちこちから声が上がる。

「おらおら、元気がねえぞ、キンタマついてんのかよぉ」

下品なヤジがとんでどっと笑い声が上がる。

「あっ、ほら、あそこにきいっちゃんがいる。相川くんもよっちゃんもいる」

母がそう言って、咲が「どこ、どこ」と言いながら人ごみのなかでぴょんぴょん跳びはねる。喜一も相川くんもよっちゃんも体じゅう真っ赤にしておとこたちの中で揉まれている。朝からずっと担ぎっぱなしらしい喜一たちの足元はふらふらと今にもよろけてしまいそうに見えた。

「今日の夜ね、きいっちゃんが神社の縁日に連れてってくれるんだよ。金魚釣りしようって。金魚いっぱい釣ってくれるって。そしたらおかあさん、金魚鉢買ってね」

咲が母の両手にぶら下がって言う。

「そうだよ、金魚釣りとね、ほかにも何でも好きなもの買ってくれるって」

「きいっちゃんにそんなお金あるかねぇ」母が心配そうに言う。

「あるんだよ、この前道路工事のアルバイトしたから。ねっ、そうだよね」

咲がわたしにそう念を押す。

「うん、そうだよ、アルバイトしたからお金あるんだって。でも、そんなに高いもの買ってもらったりしないし、それにわたし、おかあさんにもらった30円のうちまだ5円しか使ってないから」

わたしも咲も今夜の縁日をとびきり楽しみに待っている。

向かいの人混みの中に多佳の姿が見えた。高校1年になった多佳と、中学2年と小学6年と5年のいもうとたちは「よし川の4姉妹」と呼ばれて、それぞれちがったタイプの器量よしだ。

長い髪を三つ編みにした同じ髪型に、紺地に大輪の芍薬を白く染め抜いたおそろいの浴衣を着ている。多佳は薄紫、次女の佳恵は臙脂、三女の里佳は朱赤、4番目の佳織は桜色と、それぞれ色違いの麻の葉模様の帯を締めて順々に並んで立っている。

すぐ下のいもうとの佳恵が笑いながら何か言って多佳のゆかたの袖を引っぱった。多佳が怒った顔で佳恵の頭をたたいて、うちわで半分顔を隠してくすくす笑っている。ふたりの視線の先に喜一の姿があった。

おとなしい佳恵はわが家のもんじゃ焼き屋にはやってこない。それでもわたしのことは覚えていて、道ですれちがったりするとにっこり笑いかけてくれる。そんなときの佳恵の笑顔はどきどきしてしまうほどきれいだった。多佳のような華やかさはないけれど、品のよさでは多佳よりまさっていたかもしれない。

わたしは「よし川の4姉妹」にひそかにあこがれて、しばらく前から髪を伸ばしはじめた。

わたしもあんなふうに三つ編みのお下げにしておそろいの浴衣を着たら、あの4人と並んでもおかしくないようになれるだろうか。「よし川」の5番目のおじょうさんに見立ててもらえるだろうか。

お祭りの熱気が冷めきらない夕暮れ、店の前に自転車が一台とまって「おばさあん」と、多佳が母を呼ぶ声がした。

「まぁ、どんな風の吹き回しだろう、ふたりいっしょだなんて」

母にからかわれて一日中神輿を担いですっかり日に焼けた顔をさらに赤くして喜一がにやっと笑った。

「迎えに来たのよ。すずちゃんたちと縁日に行く約束だったんだって」多佳が自転車の荷台からすとんと飛び降りてうちわでせわしなく自分の顔に風を送りながら「暑いねぇ」と言った。梅雨が近いことを思わせる湿ったにおいがした。

「あら、そうなの。でもうちじゃあまだ夕食もすんでないしねぇ」

時計を見るとまだ6時前だった。6月半ばの6時はまだ十分明るさが残っている。もっとおそくきてくれればよかったのに。

「咲もまだ帰ってきてないし、せっかくさそってくれたのに悪いけどふたりで行ってちょうだい」

ちょっと待って、いっしょに行く、咲もわたしもずっとたのしみにしてたんだから。が、その言葉は声にはならなかった。咲がいたらよかったのに。咲だったら母がなんと言おうと、泣き叫んでもいっしょに付いていくに違いない。その咲はお神輿のあと亀岡さんのところに行ったまま帰ってきていなかった。

母がふたりだけで行かせたがっている、母のその気持ちがわたしにはなんとなくわかってしまっていた。ふたりがこんなに仲良さそうに連れだってやってきたのははじめてのことだった。

白いポロシャツ姿で自転車にまたがっている喜一と、喜一に寄り添うように立っている多佳と、夕暮れのなかでふたりの姿はまるで一枚の絵のようだった。そこに割り込んでいってはいけないのだ。

多佳はくちびるに薄く紅を引いていた。たったそれだけなのにいつもよりずっときれいで、きらきらと明るいひかりに包まれているようにさえ見えた。このとき多佳と喜一は高校1年、16になったばかりだった。

「いいよ、うちのことは気にしなくて。あとでわたしが連れて行けばいいんだから」

ふたりはどうしようかといったようすで顔を見合わせている。わたしはそれでもやっぱり行きたかった。行きたい行きたいとこころのうちで思いながら母とふたりをかわるがわる見くらべていた。

「それじゃあ、先に行こうか」

多佳が言って自転車の荷台にまた腰を下ろした。

「すずちゃん、あとでおいで」

喜一がチリンとベルを鳴らしてペダルに足をかけた。

「あっ、そうだ、これじゃまだから置いてくね。いらなかったら捨てちゃってよ」

多佳が持っていたうちわを店の奥めがけてひょいと投げた。うちわは両端をひらひらさせながらゆっくり飛んできて、わたしの足もとに落ちてきた。

「まっ、そんな乱暴をして。お店のものだろ。おかあさんに怒られるよ」

「いいんだよ、あんな店。ぶっつぶれて泣きゃあいいんだ」

「ほら、またそんなこころにもない悪態をつく」

「そうだよね、おばさん。すなおじゃないのがこいつの悪い癖だよね」

喜一があごをしゃくってみせる。

「なにさ、すなおじゃないのはどっちのほうさ。ね、おばさん」

にぎやかな笑い声を残してふたりはいなくなった。わたしは足元に落ちたうちわを拾い上げた。

「これ、多佳ちゃんちのうちわなの?」

薄いグレーの地に朝顔が群青の濃淡だけで描かれていて、左下にちいさく「よし川」と赤字で書いてあった。

「そうだよ、お得意さんにお中元にあげるものだそうだ」

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酒屋さんやお米屋さんでくれるものとはまったくちがった立派なうちわだった。

「これ、もらっていい?」

もし自分のものになるのだったら来年は子供会のうちわなんかじゃなく、これを背中に挿していこう。

「だめだよ、あとで返すんだから」母はそっけなくそう答えて、汚さないうちに棚の上にでも上げときなと言った。

わたしはうちわの細竹の柄をにぎったまま離さなかった。あとで行くと言ったって、母はお店を閉めてまで連れて行ってはくれないだろう。それに喜一といっしょだからわたしも咲も楽しみにしていたのだ。金魚釣りも射的も綿あめもみんなご破算になってしまった。ゆかただって暑いのをがまんして着替えずにいたのに。

金魚の水槽をのぞきこんではしゃいでいる自分たちの姿が消えて、かわりに多佳が喜一のとなりで笑っていた。行けないとなるといっそう行きたさがつのって泣きだしたくなるほどだった。

咲が帰ってきたらどうなるだろう。地団太踏んでくやしがるだろうか。せいいっぱい大泣きして母を困らせてやればいい。おかあちゃんのばか、きいっちゃんのばか、多佳ちゃんのばかと泣きわめいてやればいい。

うちわの細い骨の一本を指先でつまんで、親指に思い切り力を込めると、みしりと小さな音がした。細い竹の骨は裂けたような筋をいっぱい作ってゆがんだだけで、ぽきりとは折れなかった。

「痛いっ!」

裂けた竹の先が棘になってわたしの人さし指に刺さっていた。

「おかあさん、このうちわ壊れてるよ、棘が刺さっちゃった」

くやしまぎれにおおげさな声をあげてみたが、母は「あらま」とそっけなく言っただけで、部屋の中に入って行ってしまった。

こんなに早く来るなんて、先に行ってと言われて行ってしまうなんて、あんなに何度も約束したのに、それもみんな多佳のせいだ。きっとそうだ。わたしは喜一に裏切られたような気がした。うちわまで自分に意地悪しているようで腹立たしかった。

「あれまぁ、なんとえらいべっぴんさんだこと」

その声に思わずふりむくと、安井さんのおばあちゃんが、さっきまで多佳と喜一がいたあたりに顔を向けて上がり框にすわっていた。多佳と喜一のことに気を取られて、居たことさえ忘れていたが、安井さんのおばあちゃんもわが家の重要な常連のひとりだった。

おばあちゃんは家のずっと奥の方にむすこさん一家といっしょに住んでいる。しばらくまえからボケはじめて、ボケはじめたとたん自分の持ち物一切がっさいを行李に詰めて、どこに行くにもそれをしょって歩くようになった。

年はいくつくらいだっだろう。真っ白な髪に曲がった腰でよろよろ歩いてゆくおばあちゃんを見かねて、わが家に荷物を置いてゆくように勧めたのだった。ちょっとそこまで買い物に行く、お医者に行く、銭湯に行く、そのたびにわが家にやってくる。多いときは日に二度三度とやってくるので頻度からいったらいちばんの常連だったかもしれない。

これまで多佳には何度も会っているはずだから、今日の多佳は格別きれいに写ったのだろう。ふだんは周りのことには一切関心がないおばあちゃんが話すことと言ったら「うち嫁が泥棒なもので」ということばかりなのだ。

母の話によれば、戦争中、空襲を逃れるためにお嫁さんの実家に家財道具を預けたところそのお嫁さんの家のほうが焼夷弾で焼かれてしまった。それが逆恨みとなって、お嫁さんを泥棒扱いするようになったのだそうだ。

「なにしろ、嫁が泥棒なもんで、家に何も置いておけないんですよ。何の因果でそんなことになったものやら。ほんとうに情けないことでございます」

行李の中身を広げながらおばあちゃんは決まってこう言いながら、うす黒くなった手ぬぐいで涙をぬぐうのだった。

もちろんお嫁さんは泥棒なんぞではなく、とってもやさしいいいひとで、ときどきわが家に寄っては「おばあちゃんがお世話になってます。すみませんねぇ」とあいさつしてゆく。

「どこのむすめさんかいね?」

おばあちゃんはこれから銭湯に行くつもりで、行李から取り出した洗面器と石けんと手ぬぐいを膝の上にのせたままぽかんと多佳のいたあたりをながめている。回転の遅いおばあちゃんの頭にはまだ多佳の残像がみえているのかもしれない。

「いろは通りの向こうに「よし川」って料理屋さんがあるでしょ。そこの跡取りむすめさんよ」

母が自分のことのように自慢げに言う。

「そりゃまた、たいそうな。わたしらには及びもつかないお大尽さまだ」

そう言いながらおばあちゃんはよっこらしょと立ち上がった。

そんなまだらぼけのおばあちゃんが見とれてしまうほどの美少女の多佳が、こんな高価なうちわを紙きれのように投げてよこす多佳が妬ましかった。その上今夜のようなささやかなわたしの楽しみまで持って行ってしまうなんて。

多佳が投げてよこしたように、手にしたうちわを通りに向けて投げ返してやりたかった。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒