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玉の井パラダイス

2013年2月20日 更新

第17話 「玉の井パラダイスの灯が消えた」


「そろそろ潮時かもしれないねぇ」


母がもんじゃの台に肩ひじついて燃えさしのたばこに火を付けた。母は以前は「いこい」をすっていたが、しばらく前から「いこい」よりいくらか安い「しんせい」に変えた。それでもそのタバコ代が惜しくて1本を2度3度に分けて吸うようになった。そのくらいだったらやめればいいと思うのだが、そういうわけにもいかないものらしい。

「潮時って、何が」

母の向かい側に立って、正子伯母がラジオのつまみを回しながら聞いた。


ラジオは父がまだ十代のころ買ったものだそうで、木製のラジオはところどころ塗料が剥げ落ち、スピーカーに張られた綾織りの布地はほつれはじめている。父は仕事をしながらこのラジオで落語を聞いては、よくくすくすとひとり笑いしていたそうだ。


これもそろそろ寿命かもしれない。ボリュームを絞れば聞こえなくなるし、ちょっと大きくすれば雑音が入って聞きにくくなる。「ジジッ、ジジッ」という雑音をバックにしてペギー葉山が「南国土佐をあとにして」を歌っていた。歌の明るさとはうらはらに母の声も顔色もさえなかった。

「もんじゃ焼きさ。今年でもうやめにしようかと思って」

母は灰皿の上にタバコの灰を落として、ためいきといっしょに煙を吐き出した。


「そうだねぇ、なんだかすっかり寂しくなっちゃって、張り合いないものねェ」

正子伯母が火を落としてなまぬるくなった鉄板に片手をかざしながら答えた。近所の小学生が3人帰ったところだった。もんじゃの台の上には空になったお椀が三つへらといっしょにころがって、お椀に残った小麦粉が白くひからびていた。

鉄板の焼ける匂いがうっすらと残ってただよっている。わたしはこの匂いが好きだ。もんじゃ焼きを商売にしていることをわずらわしいと思うこともあるけれど、これがうちの匂いだとも思っている。


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正子伯母は母の兄嫁で、いろは通りの向こう側、走れば1分とかからないところに住んでいる。栃木なまりのちょっとくせのある語り口の、あけっぴろげで陽気な伯母と、しっかりもののようでかなり間の抜けたところのある母とは相性がいいらしい。歳もひとつちがいでほんとうの姉妹かと周囲に思われているほど仲がよかった。

正子伯母はしばらく前まで週のうちの何日か、何時間かずつ、うちのお店の手伝いに来ていた。


「すずも来年は中学に入るし、もんじゃ焼き屋のこどもだからって、はじめから白い目で見られたらかわいそうだしね」

「そういえばアンタ、ここが不良のたまり場だって言われて、怒って学校まで掛け合いに行ったことがあったっけね。あのときゃ、おかしかったよ」正子伯母が両手を口にあてて「ククッ」と笑った。


いつのまにかすっかり忘れていたけれど、クラスのおとこの子にそんなことを言われて泣いたことがあった。あれはたしか1年生のときだったから、もう4年以上前のことだ。

もんじゃ焼きをやめる。四六時中わさわさとひとに囲まれた暮らしから解放される。おおいにうれしいことでもあり、少々さみしいことでもあった。

わたしはもんじゃ焼きの台を机代わりに、その上に広告紙を置いて必要もないのに鉛筆を削りながらふたりの話に耳を傾けていた。

おとなの話にこっそり聞き耳を立てているときは鉛筆を削っているのがいちばんいい。

コーリン鉛筆の水色の細かい削りかすが広告紙の上にひとつふたつと落ちてゆく。

トンボや三菱に比べて微妙に芯が固い気がするのが難点だったけれど、周りに塗られた色がパステルカラーできれいだったので、鉛筆はコーリンと決めていた。

わたしは一本一本ゆっくりていねいに先をとがらせてゆく。


去年、昭和33年の4月1日「売春禁止法」が施行されて玉の井の銘酒屋街はいっせいに廃業になった。「玉の井パラダイス」のネオンも消えた。

「玉の井」の最後の夜は気の抜けるほどひっそりしていたとも、「蛍のひかり」の大合唱が響いたとも言われているけれど、わたしはいつもどおりさっさと寝てしまったので何も知らない。小学生のわたしは玉の井の存亡にまったく無関心で、唯一きちんと記憶に残っているのはローズさんが死んだことだけだった。


銘酒屋がなくなって1年以上が過ぎた。わたしには特に何も変ったようには見えなかったが、町は少しづつ少しづつしぼんでいった。銘酒屋ができたことで誕生した町なのだからその土台がなくなってしまえば当然と言えば当然のことだった。

いろは通りには数件の布団店があった。どの店も間口の広い立派な店を構えていた。銘酒屋がなくなったことで真っ先に痛手を被ったのはこの布団店だったかもしれない。なにしろ布団は銘酒屋のいちばんの商売道具である。


わたしは場末の娼婦宿のイメージからなんとなく裏わびしい部屋に湿気たせんべい布団を想像していたけれど、実際はかなりこぎれいな部屋に、ふかふかの気持ちよさそうな布団が用意されていたらしい。確かにそうでなかったらお客も2度3度と足を運ぶ気にもなれなかったことだろう。

半年に一度の打ち直し、2年3年ごとの新調と、ふつうの家庭の数倍の回転で需要があるわけだから、どこの布団店も大忙しだったそうだ。それがまったく途絶えて、周辺の住人だけをあいてにするようになってしまったのだから大打撃である。


おねえさんたちの懐具合は百人百様だったろうけれど、そこそこ使える小金を持っていたから、おねえさんたちが日常商店街に落とすお金もそれなりのものがあったはずだった。

二百数十軒あった銘酒屋の半分近くはバーやキャバレー、スナック、一杯飲み屋などの同種の水商売に転業し、新天地を求めて玉の井を出て行った銘酒屋経営者も多かった。空いた家には銘酒屋とは無関係な新住人が手を加えて住み込み、総菜屋やラーメン屋、型抜きやゴム製品などの零細町工場になった。

なかにはいつまでたっても空き家のまま明かりのつかない店もあった。ピンクや水色の塗料が剥げ落ち飾りタイルが剥がれたがらんどうの そうした店は、周囲の気配をいっそう侘いものに見せていた。

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戦前のラジオ。父のラジオもこんな感じだった。

こうして「玉の井」はどこにでもある場末のちっぽけな歓楽街になった。どこにでもあるちっぽけな歓楽街「玉の井」は、「浅草から満員で発車した車両が、玉の井でからっぽになった」と言われたほどの集客力を持つことはもうできなかった。

客足はせいぜい以前の2割、心機一転してはじめたバーやスナックも1年も持ちこたえられず廃業に追い込まれた店が何軒もあった。

銘酒屋とは何の縁もなさそうなわたしたちの駄菓子屋もそれなりの痛手を被っていた。まず、銘酒屋におさめていた袋詰めのピーナツの注文がなくなりもんじゃ焼きの常連だったおねえさんたちもいなくなった。

あたらしく始まったバーのホステスはもんじゃ焼きなどという下世話な物は食べないらしい。なじみのおんなへの手土産に豆を買ってゆくようなおとこ客もいなくなった。

あらためて考えてみるとこうした収入があったからなんとか暮らしてゆけたし、手伝いに来てくれていた正子伯母にもいくらかでも給金を渡すことができた。5円10円のこども相手の駄菓子だけで暮らしは成り立たなかったのだ。


銘酒屋がなくなって売れ行きの落ちた豆はすぐに油くさくなってしまう。ケースの蓋を開けたとたん蛾が飛び出してきて、お客の前で冷や汗をかいたこともたびたびあった。油くさくなったり虫がついた豆は元がどんなに上等品だろうと商品にはならず、泣く泣く捨てるしかないのだった。

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ある程度まとまった注文ができたから神田にある太田垣から配達してもらうことができた。あまり少量では配達を頼むのも気が引けて、最近は母が自転車をこいだりバスや都電に乗って仕入れたりしている。ついこのあいだは荷物持ちとして久しぶりに母といっしょに太田垣まで行ってきた。

太田垣商店は神田須田町の交差点から一歩入ったところに、広い間口の大きな店を構えている。早めに夕食を済ませてから出かけたので、太田垣の店はすでに半分垂れ幕を下して閉まっていた。母は裏口から声を掛けて入って行った。昼間は10人ほどの職人が火を燃やしながら豆を炒っている作業場もすでに火を落として、人の姿はなかった。戦後になってからはみんな通いになって、住み込みの職人はいなくなった。二階に通じる階段が2か所あって、家の中で迷子になってしまうほど大きな家で、作業場の奥には中庭もあって池にはコイが泳いでいた。

「まぁ、すずちゃん、ちょっと見ない間にずいぶん大きくなったねぇ。こんどは中学だねぇ。お祝い何にしようかねぇ」

おかみさんはひとりで帳場でそろばんをはじいていた。おかみさんはわたしを見るといつもおおげさなほど喜んでくれる。このときも老眼の眼鏡をはずして、懐かしいものを見るようにしみじみわたしをながめていた。


「すずちゃんはますますおとうさんにそっくりになるねぇ。啓ちゃんはおとこ前だったからねぇ」


昔ながらのひさし髪に渋い色の着物を着た古風なおかみさんは「啓ちゃんが、啓ちゃんが」と父を懐かしんでくれる。

わたしは何から何まで父親似のこどもだったようで、母からもしょっちゅう「おとうさんにそっくりだ」と言われていた。母が言う「おとうさんにそっくり」はいいことは何もない。愛想がない、頑固で融通が利かない、言葉尻がきつい、動作が荒っぽい・・・と欠点ばかりだった。

でも、おかみさんの「そっくり」はちがう。啓ちゃんはめったにないほど正直で一本気な、そりゃあいい気性の持ち主だったという。すずちゃんはおとうさんのいいところをたくさんもらってよかったねと言ってくれる。

おかみさんのその言葉を聞くと、ほとんど記憶にない遠い存在だった父が、血の通った生きた人間としてすぐそばに立ちあがってくるような気がしてうれしかった。


「お金のことは気にしなくていいから、いつでも取りにおいで」


おかみさんはそう言いながら、何種類かの豆を蝋引きの茶袋に詰めてくれた。これまでは月末現金払いをあたりまえにしていたのができなくなったことも、玉の井まで配達を頼まなくなった理由のひとつだった。それでもまだ母は太田垣の豆を自分の店に置いておきたいらしかった。


出かけたのが遅かったから帰りはまっ暗になった。都電の席に座ったとたん母は居眠りを始めた。忙しくて慢性寝不足の母は、座ったところが私の寝どこだと言って、いつでもどこでもすぐに舟を漕ぎはじめる。ときどきは立ったまま眠ってしまうこともあるんだそうだ。


大通りをゆく都電。わたしの一番古い記憶では、(たぶん小学校にあがる前後) 運賃は片道7円、往復買うと13円だった。


わたしの肩にもたれて母は口を半開きにして眠っている。柔らかすぎる母の髪はパーマをかけてもなかなかきれいにまとまらない。ぱさぱさにひろがった髪がわたしのほほにかかって揺れている。丸襟のブラウスから骨そのものの形で鎖骨が飛び出して見えていた。


母はしばらく前からひざに水が溜まる病気にかかっていて、ときどき医者に行って水を抜いてもらっている。その膝で業務用の重い自転車に仕入れた荷物を積んで走るのはさぞつらいことだろう。

わたしたちの暮らしは母のその頑張りに支えられていた。しかし、ひとの努力だけではどうしようもないこともある。

早く大きくなりたいとわたしは思った。大きくなったら免許を取って、スクーターを買って母の代わりに仕入れに行こう。それから、あんなみすぼらしい駄菓子屋なんかじゃなく、誰に見られても恥ずかしくないようなちゃんとしたお菓子屋にしよう。生まれたからずっと店屋のこどもとして育ってきたわたしには、店以外の仕事という選択肢はまだ考えられなかった。

ひと袋2キロか3キロの豆でも7、8種類ともなるとけっこうな重さになる。母と半分ずつに分けた包みを膝の上に載せて、それを両手でかかえながらわたしは窓の外を流れてゆく街の景色を心細い思いで眺めていた。大通りに並ぶビルのほとんどはすでに明かりが消えて、街路灯だけがあたりを照らしていた。

膝の上に載っている豆の重さは、母といもうとと3人で生きていかなければならない暮らしの重さでもあった。

銘酒屋に豆を納めて、豆を買ってくれるお客がそこそこあったから父が残してくれたお金にも手を付けずにやってこれたのだ。父のお金は、この数年のあいだに数分の一に目減りしていた。これさえあればと手を付けずにたいせつに取ってあった虎の子だったけれど、もはや頼みになるほどのものではなくなっていた。わたしたち一家のほんとうの困窮は父が亡くなったときからではなく、「玉の井パラダイス」のネオンが消えたときからはじまったと言えるかもしれない。

「それで、もんじゃ焼きをやめてどうするの? 駄菓子屋だけでやっていけるかね」

「もんじゃ焼きだってほんとうに儲かっていたんだか・・・。ただ忙しかっただけのような気もするよ」

「でも、楽しかったじゃないか。毎日毎日若い子たちに囲まれて、おばさんおばさんてみんな慕ってくれてさ」

「そうだね、ほんとうに楽しかったね。儲けなんかなくても楽しかったんだからそれで いいのかもしれないね」

わたしは鉛筆を削る手を止めて、じっとふたりの話に耳を傾けていた。



>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒