長屋の向こうから三軒目の村松さんのおばさんは名前を「さち」という。村松さん夫婦にはこどもがいなくて、おばさんのおかあさんがいっしょに暮している。こどももいないし、おかあさん(といってかなりのおばあさんだが)が家の中の仕事をしてくれているからおばさんはそうとうな暇人で、暇にまかせて一日中あちこちふらついている。
あちこちふらついているおばさんをおばあさんは通りに出て大声で呼ぶ。おばあさんの言葉は少し訛っていて「さち〜〜〜」と言っているのが「さつ〜〜〜」と聞こえるので、みんなはおばさんを「おさつさん」と呼んでいる。
暇をもてあましたおさつさんは通りをうろうろしたり、家の戸口に立って行き過ぎる人の品定めをしたり、何か事件でもあればここぞとばかり飛び出してゆく。
けんかは日常茶飯事だし、火事も多い。無人踏切では度々事故があった。
おさつさんは見てくるたびに、轢かれたひとの皮膚や内臓がどんなふうに線路にはりついていたとか、ちぎれた片足が血だらけで転がっていたとか、事故のありさまをこと細かに話して聞かせる。そんな時は聞きたくないと思いながらついつい耳を傾けてしまう。
「それがさぁ、あんた、人間の内臓って紫色してるんだよ。あれはきっと肝臓だったね。あとはぐちゃぐちゃになっててよくわかんなかったけどさ」
おさつさんは興奮して口の端に泡を吹いている。
「なんだかまだぴくぴく動いてるのもあってさ、まぁ、そこらじゅう血だらけ。血の海の中で動いてるんだよ。ああ、気持ち悪い。思い出すだけで胸が悪くなってくる。あんなもの見に行くんじゃなかった」
げんなりした顔で胸をさすりながら帰ってゆくが、またなにかあれば喜びいさんで出かけてゆく。一度なぞ、列車に跳ねられたひとの首だけが200メートルも離れたところまで飛んだことがあった。
わたしはそれを聞いただけであまりの恐さにしばらくはひとりでトイレにも行けなくなってしまったほどだったのに、おさつさんはそれもしっかり見に行ってきた。
ともかくも暇でしかたないおさつさんは、顔見知りが通りかかれば必ず呼び止めてあれこれ聞きだそうとする。
こどものわたしもおさつさんの情報収集の網から逃れられない。おさつさんの家の前は早足で行き過ぎることにしているけれど、ときどき捕まってしまう。
いったん捕まったらたいへんだ。どこに行くの? なにしに行くの? 誰と行くの?と、納得がいくまで離してもらえない。
家にお客でもあれば必ずのぞきに来る。
「ちょっと、ちょっと」と、咲やわたしを手招きで呼び出して、誰が来たの? なにしに来たの? どんな関係のひと? と、こっけいなほど何でも聞きたがる。
おさつさんにはもうひとつ、やたらに自慢話をしたがるという悪い癖があった。おさつさん一家は今でこそこんな長屋住まいをしているけれど、戦災で焼け出される前は女中さんが何人もいてテレビも洗濯機もなんでもそろったお屋敷に住んでいたのだそうだ。
「テレビも洗濯機も最近やっと出はじめたものじゃないか。どうしてそんなすぐばれるようなうそをつくんだか」
母や正子伯母はそう言って笑っている。
おさつさんには親類がたくさんいて、そのひとりひとりがまた自慢の種だった。みんながみんな器量がよくて頭がよくて、いい学校を出ていい会社に勤めていることになっていた。
その自慢の甥のひとりが多佳に夢中になっていた。多佳が来ていそうな時間を見計らってわが家にも何度か来たことがあったが、ポマードで髪をべったりなでつけた気障なおとこだった。
自分が追いかけているくせに、多佳が追いかけているようにみせたがっているのがわたしのようなこどもから見てもこっけいだった。
多佳は鼻もひっかけていないくせにときどきこのおとこの名前を出しては喜一をやきもきさせておもしろがっていた。
ある日の夕方、おさつさんが割烹着の袖を袋手にして店の中に入ってきた。奥の上がり口に多佳がすわっていた。そのとなりで母と正子伯母がいつものようにたばこをふかしている。わたしは4畳半で咲とテレビを見ていた。
「うちの甥っこ知ってるだろ? ほら、たぬき通りの先に住んでる、わたしの姉の子さ」
おさつさんは買い物に来たわけでもなく、店の真ん中に立ったまま誰に話すでもなく「うちの甥っこ」の話をはじめた。
「あの子に好きなおんながいたんだよ。あんまりたいしたおんなじゃなかったけど、どういうわけかすっかり熱をあげちまって。惚れてしまえば何とやらで、あばたもえくぼってやつだよね」
おさつさんの視線はいつのまにか多佳に集中している。
「あの子は純情で世間知らずなもんだから、いいように振りまわされてずいぶんお金も使わされたらしいや。このころになってようやく目が覚めて手を切ったっていうから、うちのほうじゃみんなほっとしてるんだよ」
おさつさんはそこで言葉を切って、おおげさにため息をついた。
「そうとうなすれっからしだっていうからさ、そんなおんなが身内の嫁になったりしたらそれこそ目もあてられないじゃないか」
母たちはあきれたようすで顔を見合わせている。多佳はにやにやしながら黙って聞いていた。
「いずれにしてもこっちから縁を切ったんだからいいきみさ。だけどそのおんなも損したよねぇ、うちの甥っこみたいないいおとこ逃がしちまってさ。高校はちゃんと出てるし、いい会社に勤めてるんだよ。あんないいおとこめったにいるもんじゃないのに、おとこを見る目がないんだね」
そう言っておさつさんは多佳の肩をぽんと叩いて、「ねェ、あんた、そう思わないかい?」 って聞いた。
「そうね、ほんとにばかなおんなだわね」
多佳がしらばっくれてそう答えた。母と正子伯母があきれ顔でにやにやわらっている。
「ええっ? その相手のおんなってあんたじゃなかったの?」
一瞬の沈黙のあと、おさつさんが目を丸くして言った。
「あら、やだ、わたし、おばさんの甥ごさんなんてぜんぜん知らないもの」
「ほんと? ほんとに、あんたじゃなかったの?」
おさつさんは口をあんぐりあけて多佳の顔をのぞきこんでいる。
「ほんとよ、ほんとに知らないもの。ねぇ、おばさん、わたしのことなんかじゃないわよね?」
「さあねェ、わたしもよく知らないけど、ねぇ、ねえさん、そんなこと聞いたことあったかね?」
多佳に調子を合わせて、母が正子伯母に声をかけた。
「知らないよ、わたしゃ。どこかのすっとこどっこいの話じゃないのかい」
正子伯母が今にも吹き出しそうな顔でそう答えた。
「おやまぁ、そうなの・・・。わたしゃてっきりあんたのことだとばかり思ってたよ。そうかい、あんたのことじゃなかったのかい」
おさつさんはそれでも納得しかねる顔で首を傾げている。
「おかしいねぇ、どこで話が食い違っちゃったんだろう。なあんだ、よけいなこと言っちゃって、まあ、すっかりばかみちゃったよ。なあんだ、まあ」
おさつさんは割烹着の袖に両手をつっこみなおして、いかにも残念至極といった感じで、何度も首を傾げながら出て行った。
おさつさんの姿が見えなくなると、みんないっせいに吹き出した。わたしも咲もいっしょになってくすくす笑って、しまいには5人そろって大爆笑になった。
「でもあんた、おさつさんが金使わされたとか何とか言ってたけど、まさかそんなことしてないだろうね」
母が心配顔で聞いた。
「やあねェ、見損なわないでよ、そんなことするわけないじゃない。そりゃ少しは向こうが勝手に買ってよこしたものもあるけど、あんな奴のもの、気持ち悪いからみんなうちのお店の子にやっちゃったわよ。ねぇ、すずちゃんたちだってあんな奴、気持ち悪いと思うよねぇ」
多佳に言われてわたしも「いやだぁ」と言い、わたしをまねて咲も「いやだぁ」と言った。
「だけど、まぁ、おさつさんもひとがいいっていうか間が抜けてるっていうか、多佳ちゃんの『知らない』のひとことでよく引き下がったもんだ」
正子伯母が笑いすぎて涙目になった両目を手の甲で拭いながら言う。
「それにしても、あのおばさんもいい度胸してるじゃないの。本人だとわかっててあんなこと言うなんてさ」
多佳は多佳でひとごとのように澄まして笑っていた。
それはそれだけの話だったが、あとでちょっとした事件が起きた。喜一がその甥とたまたま飲み屋で出くわして、酔った勢いで大ゲンカになった。
飲み屋の椅子2脚と電気の傘と徳利とおちょことお皿をいくつか壊して、お巡りさんが呼ばれて、交番にしょっぴかれた。
おさつさんの話は多佳には笑い話ですんでも、喜一にはそうはいかなかったらしい。
わが家に駆け込んできた多佳といっしょに交番に行ってみると、奥の畳の上で喜一は正体なく大の字にのびていた。あちこち傷だらけで口の端には血が滲みだしてシャツは半分脱げかかっている。
おさつさんの甥はすでに誰かが引き取って行ったのか、そこには喜一しかいなかった。多佳が喜一の足もとで「ばか、ばか」とののしりながら地団太ふんでいた。
おまわりさんがひとり、汗をふきふき机に向かって書類になにか書きこんでいた。
「あんた、ちょっと、きいっちゃんの家に行って、おばさん呼んできてあげな」
母はわたしにそう言い残して交番の中に入って行った。
もう9時を過ぎていた。喜一の家は例の首が200メートルも吹っ飛んだ事故があったばかりの無人踏切の向こうにある。昼間だって怖いのに、こんな夜遅くどうやってわたしひとりで渡れっていうんだろう。
前に一度だけ夜に渡ったことがあった。こども会でたぬき通りの向こうの映画館に行った帰りだった。おとながふたりにこどもが10人もいた。それでも怖くてみんなで大声で歌いながら渡ったのだ。
「早く行ってきなさい」
交番の奥から母に叱られるように言われて、わたしは「だったらおかあさんが行けばいいじゃない、多佳ちゃんこそ行ったらいいじゃない」と思いつつおろおろするばかり。
が、しかし、わたしは母に反旗を翻せない。ふと気がつくと、うしろに咲が立っていた。
「咲、きいっちゃんの家に行くよ」わたしがそう言うと、咲は「いやだ」と答えてうしろに飛びのいた。
「行くんだよ、早くしないときいっちゃんが死んじゃうかもしれないんだよ。それでもいいの?」
この脅しは効き目があった。咲はわたしに手首をつかまれてしぶしぶ付いてきた。
救急車が来てるわけじゃない、死んだりするほどの怪我をしてるわけじゃないことはわかっている。でも、母が行って来いと言っている以上行ってくるしかない。
帰りは喜一の母親といっしょなんだから、行きだけ我慢すればいいのだ。
いくつもの角を曲がってバーや飲み屋に変わった銘酒屋街を抜けるとしだいに静かに寂しくなってゆく。
家が途絶えて無人踏切のまわりだけ荒涼とした別世界だった。月明かりの下で線路が白い帯になって左右に遠く遠く延びている。
どこかにべったり血のシミでもついていそうな気がする。線路に沿って生い茂った雑草が音もなく揺れていた。
ところどころに長くのびきった枯れすすきがひとの手のかたちになって「おいで、おいで」と呼んでいる。
「走ろう!」
わたしは咲の手を握りかえして一目散に走り出した。咲もわたしに引っ張られるように必死に走っている。うっかり気を抜くと、何かに襟首でも掴まれそうで、背中のあたりがむずむずした。
夢中で駆け抜けて人家のあるところまで来て、ほっと息をついたものの、わたしは喜一の家をよく知らなかった。おおよその見当はついていたから、行けば何とかわかるだろうと思っていた。
喜一も長屋住まいだった。似たようなつくりの家々が幾棟も並んだその一角は街灯もろくに点いていない。表札も出ていない。窓から漏れる明かりをたよりに一軒一軒立ち止まって中のようすをうかがってみた。テレビの音が漏れてくる家、こどもの泣き声がする家、ぼそぼそ話し声が聞こえてくる家、でも、喜一の家はわからない。
「どうしようか」とわたしが立ち止まる。
「どうしようか」と咲も同じ言葉をくりかえす。
知らない家の戸口を叩いて聞いてみるだけの勇気もないし、ふたりでまたあの無人踏切を渡る勇気もない。どうしようか、どうしようかと言いながら同じところを何度も行ったり来たりした。
「帰ろうか」とわたしが言うと
「帰ろうよ」と咲が答えた。
帰りは来た時よりももっと怖かった。だれかおとなが出てきてくれないだろうか。ひとりでもおとながいればそんなに怖くない。そう思ってあたりを見まわしながらゆっくりゆっくり歩いて行った。でも、だれも出てこなかった。
わたしは咲の手をしっかり握って息をつめて一歩一歩踏切に近づいていった。おさつさんが話していた、線路にべったり張り付いていた肝臓だとか胃袋だとか、200メートルも宙を飛んだ首だのがつぎつぎと頭に浮かんでくる。
「おなじところでくりかえし事故がつづくのは、浮かばれないひとの霊が呼ぶからだろうね」
「魔がさすっていうのかね、まったくそんな気はないのにふっと吸い寄せられてしまうことがあるんだそうだ」
「ひと魂のようなものがぼうっ浮かんでいるのを見たひともあるらしい」
そんなおとなたちの話も思い出した。ここには目に見えない死体が山になっているんだ。その死体に足をつかまれたらどうしよう。あちこちに死体がころがっているように見えて足が進まない。
吸い込まれそうな静けさのなかで線路にひと足踏み込みかけたとたん、「カン、カン、カン」と警報機が鳴りだした。
この無人踏切をわたしたちは「チンチン踏切」と呼んでいた。けれどこのとき、警報機は「チン、チン、チン」などとかわいくは鳴らなかった。「カーン、カーン、カーン」とかわいた音でけたたましく夜空に鳴りわたった。
列車が巨大な怪物のようにすぐ目の前を轟音とともに通り過ぎて行った。