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玉の井パラダイス

2013年5月5日 更新

第22話 里子さんと荷風と玉の井


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中学1年の夏。はたきと駄菓子がいっしょにぶらさがった店先

里子さんの登場はわが家にとって近年まれに見る朗報だった。

歳は35歳、結婚していたことがあったが、いろいろ事情があって別れたんだそうだ。

そのときにいくらかまとまったお金を「慰謝料」としてもらったので、それを元手に前からやってみたいと思っていた小料理のお店をはじめることになったという。

詮索好きのおさつさんは「ふつうの奥さんだったにしては妙にふてぶてしいところがあるし、もともと水商売をやっていたんだろう」なんて言っていたが、わたしたちにはそんな里子さんの過去なんかどうでもよかった。

里子さんには他のひとにはない不思議なパワーというか底力のようなものがあった。


こころもち下膨れで目尻がさがった愛きょうのある顔立ちのお里さんが、いつも持ち歩いている 手提げかごを膝の上にちょこんと載せてニコニコ笑いながら座っていると、まるでお福人形が鎮座ましましているようで、それだけでとっても楽しい気分になれるのだった。


そしてなによりうれしかったのは、お客さん用に用意しておいたのが余ったからとか、残り物の食材で作ってみたからとか、ときどきおかずを差し入れてくれることだった。

母は忙しいこともあったが、あまり料理がすきじゃなかった。母が作るものといったら、煮込みうどんか、野菜のごった煮か、もやしやほうれん草の炒めたものか、そんなものの繰り返しだったから、わたしは慢性的においしいおかずに飢えていた。


母は結婚するまでの長い間、小田原の裕福なお医者さんの家で女中奉公をしていた。海辺という場所柄海の幸も豊富で、新潟の山の中では口にしたこともないような贅沢なものを毎日たっぷり食べさせてもらっていたというのだから、それなりの料理ができてもよさそうなものだが、母は「わたしはおぼっちゃまの世話係りだったので料理はめったにしなかったからできない」と澄ましている。


どうやら腕白盛りのおぼっちゃま3人を相手に毎日遊び暮らしていたようで、「あのころがいちばん楽しかった」とよく言っている。とにもかくにも苦労ばかりだったような母の人生で文句なく「楽しかった」と言える日々があったことは、母のために喜ばしいことではあった。


里子さんが差し入れてくれる「小料理 お里」のお惣菜の中でわたしがいちばん好きだったのは「高野豆腐の変わり揚げ」と里子さんが命名したものだった。


水で戻した高野豆腐を三角に半切りして、三角形の底辺部分に切り込みを入れ、そこに鳥ひき肉か白身魚のすりおろしに刻んだネギやニンジン、キノコ、いんげんなどを練りこんだものを挟む。

それだけなら珍しくはないが、里子さんはそれに片栗粉をまぶしてサラダ油で揚げて、干しシイタケ、こんにゃく、季節によって、タケノコ、里芋などをいっしょに、醤油と砂糖と味りんでしょっぱくならない程度にこってりと煮含める。


これを初めて食べた時は、あまりのおいしさにうっとりしてしまったほどだった。濃いめの味付けで、これでご飯を食べると箸が止まらなくなる。

野菜の煮転がし専門の母には逆立ちしても作れない、というか、とても作る気にもなれないような手料理で、この「里子さんの高野豆腐の変わり揚げ」は、今でもわが家のごちそう中のごちそう料理になっている。


薄揚げのあぶり焼きというのもおいしかった。

半分に切った油揚げの中に鶏肉やきのこなどをいろいろ詰めて爪楊枝で閉じたものを炭火でこんがり焼きあげて、それをうす口のだし汁でほんのちょっと味をしみ込ませて食べる。これにはたいがいいっしょに炭で焼いた焼きナスが添えてあった。


今のように何でも手に入る時代じゃなかったけれど、里子さんはどこにでもある材料にひと工夫もふた工夫も加えて、だれも食べたことがないようなおいしいごちそうに仕上げていた。


お里さんは毎日日替わりで10品ほどを大鉢大皿に盛り付けてカウンターに並べておく。特別に注文があれば作らないこともなかったけれど、里子さんの料理はいつもどれもとびきりおいしかったからそれ以外を注文するお客さんはほとんどいない。なのでどんなにお客が立て込んでいても里子さんひとりでなんとか切り盛りできたわけだ。

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お里さんのお店はちょうどこんな感じだった

里子さんが始めた「小料理 お里」は里子さんのおおらかな気風のよさと手作り料理のおいしさであっというまに常連さんが増えておお流行りだ。

8つしかないカウンター席はいつもいっぱいで、いっぱいになるとカウンターわきの狭い空間にリンゴ箱を置いて、そこが臨時の席になる。

時にはぜひとも里子さんの手料理でいっぱいやっていきたいお客さんが店の外にまでリンゴ箱を持ちだしてそこで祝宴をはじめたりする。


なにからなにまでまでひとりでこなしている里子さんはいつも大忙しだ。ときどきはお客さんがカウンターの奥まで入って来て盛り付けを手伝ったりお燗番を買って出たりしている。

いつもにぎやかな笑い声が絶えず、その笑い声に釣られて新しいお客がふらっとのれんをくぐってくる。


格付けとしてはどこにでもあるいっぱい飲み屋だったが、おとこばかりじゃなくおんなのお客さんもたくさんいたし、なかにはこども連れで里子さんのおいしい手料理を食べにやってくるひともいる。「小料理お里」はそういうお店だった。


ともかくも最近わが家にやってくる常連と言ったら、タガのはずれ具合がますますひどくなった多佳と喜一、おさつさんを筆頭にした近所のおばさんたち、いよいよボケがすすんで「嫁が泥棒なもので」としか言わなくなった川口さんのおばあちゃん。

おばあちゃんはよぼよぼながらまだ生きていた。このころは杖なしでは歩けなくなって、杖を突きつき大きなつづらを背負って歩く姿は雀のお宿の欲張りばあさんそっくりだった。


それから新興宗教の勧誘。これはこのころ急速に勢いを増していった宗教団体で、わが家は一日中開け放しにしているから、のべつまくなしやってくる。


道を聞くふりをして入ってきて、徐々に徐々に奥までやってきて、部屋の中を覗き込んで「この家は乱れている、このままではろくなことにならない」などなど、手を変え品を変えやってきては、脅しまがいのことを言いたてる。

いちどなどはあまりのしつこさに腹を立てた母が相手を店から追い出そうとしてもみ合いになって、あわや乱闘騒ぎになるところだった。そんな具合だったから、里子さんはわたしたちにとって福の神みたいな存在だったのだ。


「ねぇ、すずちゃん、わたしにちょっとその偉い先生のこと教えてくんない?」

里子さんに言われて、部屋の奥の小さな本棚から「こども百科事典」と書かれた一冊を取り出してきた。去年麻布中学に入学した啓運閣のたっちゃんが、もういらなくなったからと言ってくれたたくさんの本の中の一冊だった。


貧乏人の吹き溜まりそのもののような玉の井にも裕福なひとたちもいた。たっちゃんの家もそのひとつで、たっちゃんのおじいさんは啓運閣の住職で、おとうさんは都庁のお役人、おかあさんはお花の先生をしている。


たっちゃんのおかあさんはふっくらとした色白の日本美人で、お花のおけいこの日にはきれいな着物をばしっと着つけて出かけてゆく。

お花を片手に上等な着物姿のたっちゃんのおかあさんは、どこの奥様だろうかとひとが振り返るほど上品で堂々としていた。


「お寺のママちゃんたらね、玉の井に住んでるのが恥ずかしいんだとさ。浅草駅で玉の井までって言えなくて、いつも鐘ヶ淵まで買うんだそうだ」

正子伯母と母がこんな話をしていたことがあった。

母たちは住職の奥さんであるたっちゃんのおばあさんをお寺の奥さん、たっちゃんのおかあさんをちょっとハイカラに「ママちゃん」と呼んでいた。

「へぇ、わたしゃ玉の井に住んでることを恥ずかしいなんて思ったことなかったけどね」

「そりゃあ、ママちゃんは女学校出の学のあるひとだもの、玉の井はやっぱりいやなんじゃないかい」

「そうかねぇ、自分が女給やってるわけじゃなし、玉の井だって鐘ヶ淵だって同じようなものじゃないかね」

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昭和30年ころの玉ノ井駅

「浅草から玉の井までも鐘ヶ淵までもおなじ20円だからさ。学問のあるひとはそういうことであたまをつかうものなんだよ」

「ふ〜〜〜ん、いずれにしても学問があるって面倒くさいもんだね」


鐘ヶ淵は浅草から四つ目、玉の井の次にある駅で、かつて赤線盛んなりしころは、玉の井にやってくるおとこたちは堂々「玉の井まで」と言えなくて鐘ヶ淵まで買っていたそうだ。まだ券売機というものがない、窓口で切符を買っていた時代のことである。


「ほら、このひと」

畳に膝をついて差し出した本のページの右上に黒ぶちの丸い眼鏡をかけ口をへの字に閉じた荷風の写真が載っていた。」

「へぇ、これがねぇ。あんまりいいおとことも思えないけど、人柄は悪くもなさそうだ。

ねぇ。それじゃあついでに文のほうも読んでみてよ」

分厚いその本を膝の上に載せてわたしは声をあげて読み始めた。

「明治12年エリート官僚の長男として東京小石川に生まれる。厳格な家庭に育ちながらそれに反発するように、少年時代から吉原に遊び落語家に出入りしたりした。

20代半ばで渡米。さらにフランスに渡る。帰国後「すみだ川」などの小説を発表。昭和27年文化勲章を受けるが近代日本の世相を嫌悪し、江戸の情緒を慕いながら孤高の作家としての生き方を貫いた。

あっ、『墨東忌憚』も書いてある。『荷風文学の最高峰」だってさ。いい?これも読んでみるからちゃんと聞いててよ』

わたしはお里さんと母のふたりに交互に目を向けて念を押し、一行一行ゆっくり読み進める。

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その本に載っていたのはまさにこの写真だった。

「昭和12年4月16日から6月15日まで東京、大阪朝日新聞夕刊に連載され、35回をもって完結。木村荘八の挿絵で夕刊立ち売りはまたたくまに売り切れてしまったというエピソードもある。

私娼窟玉の井の人情や風俗を、四季の移り変わりとともに随筆風に展開し、詩情あふれる作品として荷風の代表作となっている。


雨宿りしたことから忍んで通うことになるお雪という私娼の家は寺島町7丁目60番地・・・・60番地だって。うちが110番だから60番地ってどのへんだろうね?」


この並びがずっと110番地で、いろは通りの線路際にあるふさちゃんの家が119番地。

駅に近づくに従って番地が大きくなってゆく。わたしが知っているのはそのくらいだ。


「さあねぇ、いろは通りの向こう側じゃないかねぇ。魚清の裏あたりじゃないか。戦前は銘酒屋はみんな向こうにあったんだから。空襲でみんな燃えちゃったけどね」

「へぇ、そうなんだ。そいつはちっとも知りませんでした」


里子さんは気のない様子でそう言いながらわきに置いた手提げからたばこを取り出すと、底のほうを慣れた手つきで軽く音を立ててはじいた。封を切った口からたばこが2本顔を出した。


たばこを差し出されて「いいよ」と言いながら母も割烹着のポケットからたばこを取り出した。わたしは母にたばこを吸ってほしくなかった。身なりに構わないやせっぽの母が腕組みしてたばこをふかしている図は、絵に描いたようなうらぶれた場末の駄菓子屋のおばさんそのものだった。


「それじゃあ、おばさんは戦前の玉の井とやらも少しは知ってるんだ」

里子さんが煙を吐き出してふむふむとうなづきながらいう。ふむふむとうなづきながらいかにも訳知り顔でものを言うのが里子さんのくせだった。


「そうねぇ、戦前はめったに玉の井に来たことはなかったから、知ってるってほどには知ってないよ。いろは通りの向こう側は、若いおんなの行く所じゃないといわれていたしねぇ。そういえば、ここにはじめてきたのは17歳のときだった」

ふむふむとお里さんは母の顔を見上げる。


「ふらっとひとりで外に出てみたら、いつの間にか銘酒屋街のなかに紛れ込んでしまってね、出られなくなっちゃったんだよ。狭い路地があっちこっちにぐちゃぐちゃとつづいてて、どこをどう行ってもいろは通りに戻れない。昼間のことで出歩いてる人もいなくて道を聞くこともできない。

行き止まりのようなところできょろきょろ見回していたら、いきなり空から水がどさっと降ってきた」


「あらま」と里子さんとわたしは顔を見合わせる。

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玉の井のジオラマ。母が水をぶちまけられたのはこんな路地裏だったのだろうか

「おどろいたのなんのって、上を見上げると、ぼさぼさ髪のおねえさんがバケツを片手にこっちを見降ろしていて『ここはね、あんたのような小娘がうろつくようなところじゃないよ。さっさと出て行きな』って、そりゃあ怖い顔と声でどなったんだよ。


あのときほどびっくりしたことはなかったよ。目の玉が飛び出るっていうのはああいうときのことを言うんだろう。それこそ新潟の山奥から出てきたばかりの西も東も分からない田舎者だったんだから。


慌てふためいて走って走って走って、ともかくも走りまわって、気が付いたら大村肉屋の脇の道に立っていたっけ。

ここのおばさんに話したら大目玉さ。2度と行っちゃいけないってしつこいくらい釘を刺されて、それ以来銘酒屋のほうに足を踏み入れたことはなかったねぇ」


「ふ〜ん、そのおんなのひとはどんなつもりで水なんかぶっかけたのかね。二度と来るんじゃないよって親切心だったろうかね」

「そうねぇ、そうかもしれないねぇ。だけど、いかにも寝起きの顔で眉なんかもなくってさ、わたしには鬼のようにしか見えなかったよ」


母はそのときのことを思い出したらしくくすくすとひとり笑いをして「ああ、こわかった」と言った。

ともかくも、戦前の玉ノ井に足を踏み入れ、娼婦とそんな出会いがあった母は、貴重な生き証人だったかもしれない。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒