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玉の井パラダイス

2013年6月20日 更新

第25話 すずの切なさ


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旧玉の井 ジオラマ

「ちぇっ、ちっともうまくねえや」


喜一がいかにも不機嫌そうな顔で、お膳の上の天津麺のどんぶりを押しやった。二人前頼んだ餃子も、三つまで食べてあとはそのまま、届いたときのおいしそうな見栄えをなくしてくったりしはじめている。

そのくらいだったらはじめから注文なんかしなきゃよかったのに。わたしは喜一とお膳の上のお皿に交互に目を走らせる。

うちに入って来るなり喜一がわたしに向かって腹が減ったから中華亭に行って天津麺と餃子を注文してきてくれと言ったのだ。千円札を目の前に突きだされても、わたしはしらんふりでテレビ画面を見つづけていた。

なんでわたしがこんな奴の使い走りをしなければならないのだ。喜一のためになんぞ何ひとつしてやりたくなかった。大好きだった喜一が、こんなろくでもないチンピラになってしまったことを思うとあまりに悔しく情けなかった。


「いいよ、わたしが行ってくるから」


わたしが動こうとしないものだから、母が代わりに喜一からお札を受け取ろうとした。

わたしはあわてて立ち上がり、喜一が差し出したお札をバシッと音を立ててひったくると、サンダルをつっかけて店を飛び出した。


自分が使われるのもいやだったけれど、母が喜一に使われるのはもっといやだった。

「あんなやつ、あんなやつ」と、わたしはひと足ごとにサンダルを踏みならして、いろは通りの中華亭まで走って行った。

そうやって取り寄せてやったものを、喜一はなんのありがたみもなく、脇に押しのけている。


喜一は雪駄履きに派手なアロハシャツを着て、黒いサングラスをかけてすっかりやくざ気どりである。来れば母から小言めいたことばかり言われるので最近はめったに顔を出さなくなった。その脇で浴衣姿の多佳が自分の首の辺りに扇子でせわしなく風を送っている。


「わたしたち、やっぱり別れようと思って」

「そうだね、そうするしかないね。こんなふうじゃお互いろくなことにならないし、いっそさっぱり別れちゃった方がいいだろ」

さすがの母もふたりのことではいいかげんうんざりしている。ふたりの別れ話など今さら少しもめずらしくない。多佳は喜一の悪口を際限なく言いたてる。母は仕方なくうなづきながら聞いている。


「こいつときたら、飲む、打つ、買うでしょ。もう、どうしようもないのよ。毎晩ぶっ倒れるほど酒飲んで、年がら年中おんなといざこざは起こすし、チンピラと喧嘩はする。まるっきりやくざよ。ううん、やくざなんてそんな上等なもんじゃないわ。ゴロツキよ、ゴロツキ」


多佳は扇子をパチッと音を立てて閉じるとそれでいきなり喜一の太ももを思い切りたたいた。


「いてぇ!なにすんだよ、バカヤロー!」


喜一は両手を畳に突いて足を投げ出したままの恰好で多佳をにらみつけた。

「ふん、そのくらいですんで感謝するんだね、このチンピラやくざ」


多佳はいったん喋り出すと他人の言葉なんか耳に入らない。カン高い声でぎゃんぎゃんまくしたてる。喜一はそっぽを向いて多佳の話なんか聞こえないふりをしている。


「多佳ちゃん、どうでもいいけど、きいっちゃんだって一人前のおとこなんだから、こいつだのなんのと、そんな呼び方するもんじゃないよ」


「なによ、おばさん、いつからこいつの味方になったの。こんなおとこはね、こいつでたくさんなのよ。今に頭がおかしくなって瘋癲病院にでも送りこまれるのがおちなんだから」


喜一はまたまた「ちぇっ」と舌打ちしてそのまま畳の上にひっくり返った。酒臭い匂いが部屋の中に広がって来る。わたしはいらいらと立ちあがってテレビの音量をいっぱいに上げたが、それでも多佳の声がやかましくて何も聞こえやしない。


「あぁあ、『お里』の飯が食いてえなぁ。厚揚げと鳥もつの煮込みが食いてぇ、きんぴら揚げが喰いてぇ、なんでもいいから、食いてぇ」


喜一はひっくり返ったまま身もだえするように言うと、いきなり起き上がった。


「おばさん、里子さんはいつ帰って来るんだよ。田舎に帰ってから2ヶ月もとっくに過ぎたじゃないか。それとも、もう帰ってこないのかよ」


まるで母に責任でもあるかのようにわめき出した。

母の口が情けなさそうにヘの字に曲がって、わたしの胸にきゅんと痛みが走った。

東京に住む里子さんの親類だという人がやって来て、里子さんはもう玉の井に戻って来れなくなったこと、お店は居抜きで他の人に手渡すことになったと話していったのはつい一昨日のことだった。

新潟の里子さんのお兄さん夫婦が、親類の法事の帰りにのせてもらった車にトラックが追突して大破、病院に担ぎ込まれたという知らせが入ったのは、わたしと咲が里子さんのお店でわくわくしながらお煎餅を焼いた翌日のことだ。

新潟の郷里では里子さんのおかあさんがお兄さん夫婦とそのこどもたちと5人で暮らしていた。それが里子さんの近い肉親のすべてだった。

里子さんは「なにがなんだかわからないけど、ともかくも行ってくる」と言って、ちいさなバッグに身の回りのものだけを詰めて、大慌てで出かけて行った。それっきり里子さんからは何の連絡もなかった。

今のように誰の家にもあたりまえに電話がある時代じゃなかった。里子さんの所にもわたしの家にも電話はなかった。

いつのまにかなんとなく親しくなっていったから、あらためて住所を知らせ合ったこともなかった。こちらから里子さんに連絡を取る方法もなかったし、里子さんからも同様だった。

どうなったんだろう、どうなったんだろうと気をもみながら時間が過ぎてしまっていた。

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懐かしの固定電話。ほとんどの家にはまだ電話はなく、どうしても必要な時は電話を持っているひとのところに頼んで、取り次いでもらっていた。

50年以上昔のそのころ、新潟はわたしたちにとってものすごく遠いところだった。直江津や高田などの大きな町はまだしも、里子さんの西頸城も、さらにその奥の東頸城もはるか雲の上のように思えていた。

朝早くに上野から発っても、それからバスを乗り継ぎ乗り継ぎして、はたしてその日のうちに辿りつけるかどうか。

距離もさることながら、わたしたちには旅費さえ容易に工面できなかった。

借金を残して姿をくらましてしまった祖父は当然のことながら、40半ばで東京に出てきた祖母も70で死ぬまでついに一度も村に帰らなかった。母や伯父たちだってまだ一度も帰ることができずにいた。新潟の山奥は、名実ともに決して行けそうもないはるか彼方にあるものだった。


店の処分を任された里子さんの親類だというその人は、里子さんから玉の井のいろは通りの交番を入って少し行ったところにこれこれこういうお店があるから、そこのおばさんに必ず自分の近況を知らせてくれるように頼まれたのだそうだ。

そのひとの話によると、担ぎ込まれた病院で奥さんの方はそのまま息を引き取り、お兄さんは重体のまま生死の境をさまよい、一ヶ月半もの間里子さんはつきっきりで看病に明け暮れていたのだそうだ。

その甲斐あってかお兄さんは一命を取り留めたが、半身不随になって今でもまだ病院にいるのだという。


この先身体を思うように動かせないお兄さんとまだ小学生の甥姪を70近くになったおかあさんに任せるわけにもいかなくて、里子さんは東京にもどらないことに決めたのだそうだ。

里子さんがもう戻ってこないことを知った時のわたしの落胆は大きかった。今や里子さんはわが家にとって、わたしにとって欠くべからざる重要な存在になっていた。里子さんはわたしが何のわだかまりもなく打ち解けて接することのできるはじめての人だった。

いいや、実際には二人目のひとだった。

はじめのひとりは父方の祖母だった。

父が亡くなった時すでに80近い高齢の祖母は父親を亡くしたわたしたちを無条件でかわいがってくれた。

その祖母も次第にボケはじめ、わたしが小学校1年のとき、埼玉の田舎に久しぶりに祖母を訪ねてみると、祖母はわたしのことをすっかり忘れていた。


この祖母もまた日本のおんなの絵に描いたような過酷な一生を生きてきたひとだった。

祖母の家は先々代までこのあたり一帯を支配していた豪農だったそうだが、祖母の父親が酒と掛けごとに身を持ち崩した極道で、いっさいがっさいを食いつぶしたあげく、祖母が10歳のころに死んだ。

祖母の母親は早くに亡くなっていて、後添いが来ていたが、その後添いは夫が死ぬとまもなく、自分が産んだこどもとすべての家財道具とともに姿を消してしまった。


ひとりぽっちになった祖母はしゃにむに働いて、わずかずつながら無くした田畑を買い戻し、婿を取って8人のこどもを産んだ。そのこどもたちは病気や戦争でつぎつぎ命を落とし、祖母が亡くなった時に残っていたのは8人いたうちのたったひとりきりだった。


そんなふうだったから祖母はそうとう気丈なきつい性格の持ち主だったようだったが、わたしや咲にはこの上なくやさしいいいおばあちゃんだった。


「おばあちゃんはなにもかもすっかり忘れてしまったらしい」と母に聞かされても、わたしはそれを信じなかった。わたしのことだけは覚えているに違いない、他のことは忘れてしまっても、わたしのことを忘れるわけがないと思っていた。

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昭和23年秋、父方の祖父母と浅草寺境内で。
真ん中が母、右は正子伯母といとこたち

「ほら、東京に行ってたいちばん大事なむすこの孫じゃないか。あれまぁ、あんなにかわいがっていたのに忘れちゃったのかね。しょうがないばあさんだこと」


今では東京のベッドタウンになっている埼玉のそのあたりも、当時は何もない辺鄙な田舎で、東京という町は特別な響きを持っていた。

その東京でいっぱしの職人として勢いづいているわたしの父は、祖父母の自慢の種だったようだ。


「そうかねぇ、そんなひとがおりましたかねぇ」


祖母は、嫁である伯母にいくらか皮肉を込めた口ぶりで何度そう言われても、首振り人形みたいにカタカタと首を振りながら笑っているだけだった。


祖母の目はわたしを通り越して別の世界を見ているようだった。わたしは祖母に裏切られた気がして、深く傷ついた。その翌年祖母が亡くなっても少しも悲しいとも思わなかった。


それからずっとわたしは自分はひとりぽっちだと思っていた。母は不良たちにはいいおばさんだったけれど、わたしには冷たいと思っていた。

だからわたしには里子さんの登場がなによりもうれしかった。里子さんはわたしが何を言っても「ふむふむ」と笑いながら聞いてくれた。批判めいたことを言ったり冷たく突き放したりしなかった。

その上さらに里子さんは荷風煎餅というわたしの未来につながっていた。里子さんなしには荷風煎餅の実現はありえなかった。


後から思えば荷風煎餅がうまく軌道に乗って商売になるなんて可能性はほとんどなかったかもしれない。でも、そのときのわたしは里子さんがいてくれればぜったいできると信じていた。

里子さんの消滅と同時にわたしの現在と未来のともしびも消えてしまったのだった。そして今、こんなくだらない喜一と多佳がここにいて、こんなくだらない場面を演じている。

わたしはいたたまれなくなって、そこから立ちあがった。

二階に駆け上がって机の上のスタンドを点けると、机の端に南京虫が一匹、お腹を上にしてひっくり返っているのが見えた。ふっとひと吹き息を吹きかけると、ひからびた南京虫はふわっと舞い上がって畳の上に落ちてかさっと小さな音を立てた。

ホントニ、マッタク・・・とわたしは怒りを込めたため息をつく。


それまで名前も知らなかったこの虫をはじめて見たのは、悲壮な気持ちで里子さんを見送った少し前のことだった。

しばらく空き家になっていた右隣の家に越してきたおばさんが「これなんでしょう」と言って母に小さなガラスの小瓶を差し出して、母はしげしげとその中身を見た後に言った。


「これは南京虫じゃないかしら。これまでここではみたことないから、お宅の新しい荷物にでもくっついて来ちゃったのかしら」

「じゃあ、わたしが持って来ちゃったっていうことですか?」

「そういうわけじゃないけど。なにか新しい家具とか布団とか、ひとから譲ってもらったものとか、そういうものない?」

母に言われて、おばさんは不服そうに口をとがらせていた。


右隣の家はわたしの長屋とは別の一軒家だった。が、ほとんどくっついて建っているので南京虫はあっという間に侵入してきて、住みついて、またたく間にわが家を占拠してしまったのだ。


殺虫剤をいくら撒いてもいっこうに減っていかない。一度など、教室でノートを開いたらそこからもぞもぞと南京虫が這い出してきて、冷や汗をかいたことがあった。刺されると必ず二か所つづいて小さな刺しあとが残る。何とも言えないいやなにおいのする、気持ちの悪い虫なのだ。


里子さんがいなくなって代わりにこんな虫がやってくるなんて、あまりといえばあんまりだ。わたしはもう天も地も、なにもかもすべてを呪いたいほどの気持だった。


しばらくして下に降りてゆくと、喜一も多佳もすでいなくなっていて、喜一の食べ残した天津麺と餃子がお膳の上で生ぬるくふやけていた。


「それ、食べられるわよ。おそばはのびちゃってるけど、餃子はだいじょうぶよ」


母が台所で洗い物しながら言った。わたしはわけのわからない凶暴とも言える怒りに駆られて、餃子を皿ごとゴミ箱に投げ捨てた。天津麺まで投げ捨てなかったところをみると、そうしないだけの理性はまだ残っていたらしい。


「失礼ね。誰があんなひとの残したものなんか食べるもんですか!」


だらしない酒飲みの喜一と、自分たちのことで頭をいっぱいにしてこころ配りのない多佳と、そのふたりに対して腹も立てずいつまでもずるずると付き合っている母と、里子さんを連れ去って、かわりに南京虫なんかを寄こしたなにものかに、どうしようもなく腹を立てていた。


「まぁ、何するの、この子は! さっきからなにをむくれているんだか知らないけど」


母が怒鳴った。わたしは母をにらみ返した。悔しくて悔しくてならなかった。


「なんだい、その目は! 親をそんな目でにらむ子がどこにいる!」


わたしのせつなさは母にはわからない。母に見据えられてわたしは背中がこわばってそのまま身動きが取れなくなった。


母はきっとこのまま正子伯母の家にすっ飛んで行くだろう。正子伯母を相手に、わたしがどんなことをし、どんなことを言って、どんなふうに母を睨んだか、口から泡を飛ばして言い立てるだろう。わたしがどんなに生意気でかわいげのない子かと腹立ち紛れにおおげさに訴えるだろう。

「うちのおふくろも、おばさんみたいに話のわかる親だったらよかったのになぁ・・・」


不良たちが口癖のように言っていたこの言葉が、何かの呪文のようにわたしの頭を駆け巡った。

何が、話のわかる親なもんか!

わたしは中学1年、反抗期のまっただ中にいた。




>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒