「おばさぁぁぁん、なんとかして〜〜〜」
多佳が半べそで駆け込んできた。こんなふうに鼻にかかった声で「おばさぁぁぁん」とやってくるときはろくなことがない。
多佳は勤めを持っておらず、気まぐれに「よし川」の手伝いなどをしていた。このときも店に出ていたのを喜一に呼び出されたのだろう。藍色の絽の着物を着て美しく化粧していた。
「あいつが入れ墨をするって。もう、下書きまでして来たのよ、背中いっぱいに。ああ、どうしよう、あいつ、ほんとうにやくざになるつもりなんだ。ねえ、わたしどうしたらいいんだろう。おばさん、お願いだから、ちょっと来てェ」
多佳は母が出てゆくのももどかしげに、店先で下駄をカタカタ鳴らしている。
「わたしが行ったってどうしようもないさ」
多佳に腕を掴まれて、引っ張られるように母は出て行った。部屋の中から立ち上がって外を見ると、向かいの街灯のかげに隠れるように喜一が立っていた。
今夜も酔っているらしく足元がゆらゆら揺れている。
「おばさん、見てよ、このざま!」
多佳がいきなり喜一のシャツの裾を掴んでまくりあげた。街灯の下で、入れ墨の下絵が薄ぼんやり浮かんで見えた。
「うるせえなぁ、このアマ!」
喜一が多佳の手を思いきり力を込めて振りはらった。
「危ないよ、そんなに酔っ払って、加減も何もありゃしないんだから」
多佳が一瞬ふらりとよろけて、母が多佳の背中を支えた。
「俺がなにしようとテメエらの知ったことじゃねぇだろう。おばさんもさぁ、俺のことにいちいち口出さないでもらいてえな」
喜一がろれつの回らない口で言う。
「おや、そうかい。わたしのことまでテメエだなんてずいぶんエラクなったもんだ。今のセリフしっかり聞かせてもらったよ。こっちだってアンタたちのことじゃ少しもいい思いなんかしていないんだ。
そりゃ、けっこうだ。そんなこと言うんならもううちにも来ないでもらいたいよ。なにも追いかけてまでアンタの面倒みようだなんて思っちゃいないからね」
「ああ、来ねえよ、こんなところ。ちぇっ、くそおもしろくもない」
喜一は吸いかけのタバコを足元に投げつけてふらりと背を向けて歩き出した。
「ヤクザ! どぶにでも顔突っ込んで、死んじまえ!」
多佳が金切り声で叫んだ。そんな大声出したら地獄耳のおさつさんに聞こえてしまうよ。おさつさんこれ幸いとすっとんでくるよ。
多佳は泣きながら母の後について戻ってきた。
「ほっときゃいいんだよ。あんたがそうやって大騒ぎするからいい気になってつけ上がるんだ。本気でやる気ならわざわざ下絵を見せに来たりしやしないさ。はったりにきまってるよ。だいいちあの意気地なしに入れ墨なんかする勇気があるもんか」
「無責任なこと言わないでよ。入れ墨って言うのはさ、もう、あっちの世界に行っちゃうってことなんだよ。堅気の世界からおさらばするってことなんだ。おばさんどうしよう?あいつが刺青のやくざなんかになっちゃったら、どうしよう。それに、楠木田の三ちゃんが死んだのだってついこのあいだのことじゃない。あいつ気が弱いからほんのちょっとした傷で死んじゃうかもしれない。どうしよう、おばさん。あいつ、死んじゃうよ」
多佳は涙でぐしゃぐしゃになった顔を振り上げて母を睨んだ。玉の井の楠木田組の三ちゃんという下っ端が、少し前に入れ墨の途中、傷口からなんとかという菌が入って、それがもとで死んだのだった。
「死んだっていいだろ、あんなおとこ。20いくつにもなって目が覚めないような大バカ者はさっさと死んじまったほうがいいよ」
母はさすがに本気で腹を立てていたらしく、それだけ言うともう多佳にはとりあわず、明日のためのおでんの仕込みに台所に立って行った。
ふと見ると、案の定、おさつさんが店の前に立ってこちらを覗きこんでいた。今夜はいつもなら出てこないおばあさんもいっしょだった。目が会ったらたいへんだ。わたしはそっと身をかがめておさつさんの視界から姿を消した。
明日またきっと学校に行くわたしをまちかまえて、道端に陣取っているだろう。「どうしたの? 何があったの?」ってしつこく聞くことだろう。
「あら、おさつさんどうしたの? まぁ、めずらしい、ふたりそろってこんな時間に」
おさつさんたちに気がついた母が、しらばっくれたようすで店に降りて行った。
「いやね、さっきおんなの悲鳴みたいなのが聞こえたような気がしてさ、ちょっと心配になったものだから」
おさつさんはあいかわらず背伸びして部屋の奥を覗き込んでいる。
「そうなのよ、多佳ちゃんがここで自転車にぶつかりそうになってね。ブレーキも踏まないで突っ込んできたものだから、すんでのことで大怪我するところだったんだ。おさわがせしてすみませんでしたね。おや、もう、こんな時間だ。そろそろ店じまいしなくちゃ」
時計を見ると9時半をとっくに回っていた。母はおさつさんたちにお構いなく、戸を立てはじめ、おさつさんはいかにも心残りな顔つきのまま引き上げて行った。
わたしの駄菓子屋のお客は、ほとんど毎日、中には日2度3度やってくるこどもから、ほんのときたま顔を見るこどもまで、いろいろだった。
まさしクンは週に一回か二回、決まってお母さんに連れられてやってきた。わたしと同じ学年で、詳しくは知らないがわたしの家のさらに奥に住んでいて、おかあさんとどこかに出かけた帰りに立ち寄って何か買ってゆくといった感じだった。
色の白いおんなの子みたいな顔立ちの子で、とてもおとなしくほとんど声を聞いたことがなかった。おかあさんが「どうする? これにする? あれはどう?」と聞くと、こっくりとうなずくだけだった。
まさしクンのおかあさんはとってもきれいでやさしそうで、いつも渋めの着物姿で髪をきちんと結い上げていた。中学生になるとさすがにまさしクンは来なくなって、おかあさんだけが時々立ち寄って豆やらおせんべいやらを買っていき、お天気のこととか、出回ってる野菜のこととかそんな当たり障りのないことなどほんのちょっとわたしの母と立ち話をしていった。
ふたりが並んで立っていると、まるで月とすっぽん。まさしクンのおかあさんはいかにも上品な奥様然として、母ときたら髪さえろくにまとまっていないひからびたおばさんで、そんなきれいでやさしそうなおかあさんを持ったまさしクンを羨ましく思ったものだった。
そのまさしクンと中学2年で同じクラスになった。あいかわらずおとなしくて、いつもうつむいたまま誰とも口をきかないまさしクンにわたしは何の関心も持たなかった。新しいクラスの中にまさしクンの姿を見たとき「ああ、まさしクンもいたんだ」と思っただけだった。
そのまさしクンのおかしな動作に気がついたのは1学期も半ばを過ぎた頃だった。席替えになってまさしクンはわたしの3列前の席に座っていた。わたしは次の授業が始まるのを待ってぼんやり見るともなく前を見ていた。
そこにおんなの子がひとりスカートの裾をひるがえしながらやってきて、そのスカートの裾が机にひっかけてあったまさしクンの肩掛けカバンにさわった。
するとまさしクンはゴミか埃でも払うように、スカートが触れた部分を片手でていねいにていねいに払って、払い終わるとその手を口元まで持っていき、手の上の見えない何かを吹き飛ばすようにふっと息を吹きかけ、それから机から取り出したハンカチでゆっくりていねいに手のひらをぬぐった。
わたしは「ん?」と思いながらまさしクンのその一連の動作を眺めていた。スローモーションの画像でも見ているような現実離れした動作だった。
すると今度は別のおんなの子が、通りすがりにほんのちょっとまさしクンの机に手をついた。まさしクンはそのおんなの子が触れた部分をまたまたていねいにていねいに払い始め、さっきとまったく同じ動作を繰り返した。
わたしはその日一日まさしクンを観察していた。まさしくんが払うのはおんなの子が触れた時だけだった。特定のおんなの子ではなく、おんなの子の誰でもだった。
わたしは自分でも試してみた。つまずいた振りをしてまさしクンの机におもいきりべったり手のひらをつけてやった。そうやって自分の席に戻ってみると、まさしクンはこんないやなことはないといったふうにあの動作をくりかえしていた。
自分のことをそんなふうに払われるのは気持ちのいいものではなかったが、それより何よりまさしクンのその動作がおかしかった。
それをほかのおんなの子たちに話すと、みんな興味津々で、それからしばらくの間まさしクンをからかって面白がるのがわたしたちの休み時間の暇つぶしになった。
みんなでまさしクンを遠巻きにして、順番にまさしクンのカバンや、机に触ってきては、まさしクンの動作を見て声を殺して笑い転げていた。
今ならどうということもないことが、あのころはおかしくておかしくてたまらなかった。まさしクンは自分がからかわれていることにまったく気付いていないようすで、黙々と同じ動作をくりかえしていた。
そんなある日、わたしは玉の井駅に向かって線路沿いを歩いていた。ふと見ると7、8メートル先にまさしクン母子がいた。まさしクンはいつものようにうなだれて、いかにも仕方なくといった感じでおかあさんに一歩遅れて歩いていた。
そしてその数歩先を玉の井のやくざの吉池が、ばりっとした背広姿で肩で風を切って歩いていた。
いちばん上はもちろん楠木田の親分だったが、その親分とは別に、こっちがほんとうの親分なんじゃないかと思える人物がもうひとりいた。それが吉池で、楠木田は「親分さん」、吉池は「吉池の兄い」と呼ばれていた。
やくざの世界のことはなにもわからないが、吉池は楠木田同様、いつも数人の手下を従えて映画の中のやくざの出入りよろしく我がもの顔で通りをのし歩いていた。
楠木田は色白でぽっちゃりとしたあまりしまりのない体型だったが、吉池は上背があって均整のとれた締まった体つきで、さらにきりっとした立派な顔立ちの持ち主だった。
吉池が両肩から太ももまで全身くまなく覆った入れ墨を見せつけるように法被の裾を翻して闊歩する姿は、まるで映画の一場面を見ているようで、怖さ半分ながら「かっこいい」と思っていたものだ。
いつだったか、長屋のおばさん達が声をひそめて吉池の噂話をしていたことがあった。
「おそろしいおとこだよね、本妻とお妾さんをひとつ家に住まわせておくなんて」
「ほんとうに、本妻さんが気の毒だ」
「いやいや、お妾さんといってもあのひとはほんとうはお妾さんになるようなひとじゃないんだよ。いいひとだもの」
「そうだよね、もともとはいいところのお嬢さんだったって話だよ。なんでも親父さんが仕事に失敗して、それで金で買われてきたようなものだそうだ」
「妻妾同居だなんて、おんなにとってこれほどむごい話はないよねぇ」
奥さんとお妾さんがどんなひとかは知らなかったが、吉池は「かっこいい」どころか奥さんとお妾さんをいっしょに住まわせて平気でいるおそろしいおとこなのだという。
中学生のわたしにはおぼろげながらしかわからなかったけれど、「妻妾同居」という聞きなれない、知らなくてもいいそんな言葉だけがわたしの胸にしっかり打ちこまれていた。
わたしは線路際の道をまさしクンたちに追いつかないようにゆっくり歩いて行った。するとその先を歩いていた吉池がふいに振り返って野太い声で「まさし」とまさしクンに声をかけた。
そのあとの言葉はわたしには聞き取れなかったが、まさしクンはうなだれた首をさらに低くして、ちいさくひとつこっくりとうなづいた。おかあさんがいかにも困ったようすで、吉池とまさしクンに交互に目を走らせていた。
「ああ、そうだったんだ」とわたしは思った。似ても似つかないけれどまさしクンは吉池のこどもだったんだ。まさしクンは小暮という名字だった。
吉池がまさしクンのおとうさんで、名字が違っているということは、まさしクンのおかあさんがおばさんたちが言っていた吉池のお妾さんなのだ。
親の借金のために買われるように吉池のお妾さんになって、本妻と同居させられているというその本人だったんだ。
その時以来、わたしはまさしクンの持ち物に触って面白がるのをやめた。おぼろげながら、実におぼろげながらではあったけれど、まさしクンがあんなふうになったわけがわかったような気がしたからだ。
本妻にはまさしクンよりいくつか大きいこどもが3人いるそうだ。やくざの吉池が父親で、子分がひんぱんに出入りするような家で、まさしクンとまさしクンのおかあさんがどんなふうに暮して来たのか想像もつかなかった。
ともかくも、喜一の刺青さわぎはそのまま立ち消えになった。母の言った通りただのこけおどし、喜一には入れ墨する根性などなかったわけだった。
刺青の一件以来、喜一はうちに来なくなった。すぐそばまで来ても意地を張って入ってこない。喜一には母が一方的に多佳の味方ばかりしているように見えているらしかった。
「入ってくりゃいいのに。まったく肝っ玉の小さいおとこなんだから」母はこんなふうにひとり言を言うが、喜一に声を掛けようとはしなかった。