多佳との暮らしは1年近くつづいて、そのあいだにわたしは高校生になり、多佳にはこどもが生まれた。臨月近くになって多佳は産院の近くに3畳一間の部屋を借りて引っ越して行った。こどもが生まれたのは梅雨が明けて本格的な暑さがはじまった7月末のことだった。
「それが、まぁ、まるまるとしたかわいい子で。あとでちょっと見に行ってやって下さい」
「よし川」にとってははじめての孫の誕生である。多佳の母親もこのときばかりは上機嫌で知らせに来た。
翌々日、母といっしょに赤ん坊を見に行った。親の世話になりたくない多佳が選んだのは「よし川」の初孫の誕生にはおよそ似つかわしくない古びた産院で、歩くたびに床がギシギシと音を立てる陰気な建物だった。すりきれて変色した畳の上に敷かれた薄っぺらな布団で、これまた色褪せたタオルケットを一枚掛けて多佳は青い顔で横になっていた。
このときわたしははじめて生まれたての赤ん坊というのを見た。赤ん坊というのはふっくらとしてかわいいものとばかり思っていたわたしには、ただのぶよぶよとした気味の悪い生き物にしか見えなかった。
「おめでとう。おかあさんから聞いたけど、軽いお産だったようでよかったね」
「ちっとも軽くないよ。10時間以上もかかったんだから」
「はじめてのお産で10時間なら軽いほうだよ」
「へぇ、そうなんだ。だけど、もう2度とこどもなんか産むもんかって思ったよ」
「だれでもみんなそう思うけど、1年か2年もすればすっかり忘れちゃって、もうひとり産んでみようかって気になるもんなんだよ」
「そうかねぇ、でも、わたしはもうたくさんだわ」
「ともかくも五体満足な元気な子で、それ以上は言うことなし。ありきたりな言い方だけど『子はかすがい』っていうからね、こどもさえいればなんとかなるもんだよ」
こどもが生まれたことで、なにもかもうまく行きそうだった。多佳と多佳の家族とも和解したし、さすがの喜一の母親も折れて、別に部屋を借りて別居することになった。喜一も真面目になって働くことを約束した。
こどもの名前はひらがなで「しおり」という。
「喜一のおかあさんが、易者さん視てもらったりいろんな人に聞いたりして考えてくれたのよ。おんなの子らしいやさしい名前でしょ」
多佳はうれしそうだった。多佳が喜一の母親のことをこんなふうに親しげに話すのを聞いたのもはじめてのことだった。
夏の暑さがようやくひと段落した9月のある日の昼下がり、多佳としおりは喜一のところへ戻って行った。わが家の店の前の通りで喜一は危なかしい手つきでしおりを抱いていた。いつもの派手なアロハではなく、まっ白なYシャツを着ていたのもそのときの喜一の気持をよくあらわしているようでなんとなくうれしかった。
その喜一を母と多佳の母親と正子伯母が取り囲んでいる。
「そうなの、アンタ、しおりちゃんって言うの? ずいぶんしゃれた名前を付けてもらったねェ。みんなにかわいがってもらっていい子に育つんだよ。おとうちゃんおかあちゃんが喧嘩したりしないように見張ってなきゃならないから、そんなに眠ってばかりいられないよ。アンタのとうちゃんかあちゃんときたらそりゃ喧嘩っぱやいんだから」
母がしおりの頬をちょんとつつくと、しおりは一瞬顔をしかめて口をもぐもぐさせた。醜いとしか思えなかった赤ん坊は一ヶ月半のあいだにずいぶん可愛らしくなっていた。誰に似ているとも思えなかったが、喜一と同じこころもちしゃくれた顎を持っていた。
「そうですよぉ、いいかげんにおとなしく収まってもらわなきゃあこっちがたまりませんよ。おんなは一歩も二歩も下がって控え目に控えめにって言ってるんですけど」
多佳の母親はそう言いながらもやっぱりうれしそうにニコニコ笑っている。
「やだねェ、戦前生まれは。今どきそんなこと誰も本気で聞きやしないよ」多佳がふくれっ面で言い返す。「ほらね、すぐにこれですから、ほんとうに困ったもんです」
「まったく、せっかくの美人がだいなしだよね。あんたはおかあさんのまねしちゃいけないよ。すなおで優しい子におなりよ」
正子伯母がそう言って、しおりの小さな手を握ると、しおりは我関せずとばかり目をつむったまま「あぁ」とか細い声を上げながら大あくびをした。「おやまぁ、この子ったら、ちゃんと返事をしてるよ」
取り囲んだおばさんのひとりがそう言って、みんながどっと笑った。
おさつさんはもとより、長屋のおばさんたちがつぎつぎ出てきてはしおりの顔を覗き込む。
喜一はおんなばかりに取り囲まれて窮屈そうに顔を赤らめている。通りすがりの人たちはなにごとかと足を止め、ひと垣のまんなかにちいさな赤ん坊の姿を見つけて、なっとく顔でほほえんでゆく。
「これできいっちゃんもひとの親になったんだから、あんまりいいかげんなことはできないね。しっかりやっていくんだよ。」
しおりの抱き具合を直してやりながら母が言うと、喜一は柄にもなく神妙な顔でうなずいた。
まるで皇室のお見送りみたいだと笑いながらみんなでぞろぞろいろは通りまで歩いて行き、喜一たちは交番の前に待たせておいたタクシーに乗り込んだ。
勢いよく閉まったドアの音にびくっとからだを震わせてしおりが泣き出した。喜一があわてて立ち上がりかけてタクシーの天井にいやというほど頭をぶっつけた。
「やれやれ、新米のとうちゃんはたいへんだ」
「あれ、パパ・ママって呼ばせた方がいいんじゃないの、今風にさ」
「パパ・ママって柄かよ、とうちゃん・かあちゃんでたくさんだよ」
多佳が車の窓から身を乗り出して言った。笑い声に送られて、タクシーはいろは通りを抜けて行った。
これまでのことを考えると信じられないほど幸せな光景だった。多佳の母親も、わたしは心底ほっとしながら、多佳と喜一がわたしとは無縁のところに行ってしまったのだというかすかな寂しさとともに3人を見送ったのだった。
ところが、ところが、それはまったくのぬか喜びだった。どんなことがあったのかはわたしにはわからないが、2ヶ月そこそこでまたまた多佳はしおりを連れて飛び出してきて、玉の井駅の向こう側にひと間のアパートを借りて住みはじめた。
今度は手持ちの衣装を売り食いしてしのぐわけにもいかず、かといって多佳のような子持ちの若いおんなが働くとしたら、とりあえずは水商売しかないのである。多佳は早々に知り合いがやっている「ノワール」という玉の井のバーで働くことになった。
「それでね、しおりちゃんを預かってくれないかって言ってきたんだよ。夜だけでいいそうなんだけど、あんたの勉強のこともあるから、ひとまずあんたに相談してからと思ってまだ返事はしてないんだよ。多佳ちゃんの親が預かるのが筋だとは思うけど、今度のことでまた大ゲンカしたらしくて、向こうじゃこどもの面倒はいっさい見ないって言ってるらしい・・・」母の言葉はわたしにはまさに青天の霹靂だった。
「いやだぁ!」
わたしは思わずこう叫んだ。考えるより先にことばの方が勝手に飛び出してきたと言った感じで、自分の言葉の強さに自分でも驚いてしまったくらいだった。
「おばあちゃんのところで預かれないものを、どうしてうちが引き受けなきゃならないの? 自分の孫でしょ、けんかしたのなんのってそんなこと理由にならないでしょ。こっちこそ赤の他人じゃないの。多佳ちゃんもあんまりよ。なんでもうちに押し付けてきて」
わたしは必死だった。誰になんと言われようと、これだけは譲れなかった。
「そりゃ、あんたの言う通りだ。わたしだって多佳ちゃんや多佳ちゃんの親にはいいかげん腹を立ててるんだ。あんまり勝手だからね。だけど、こどもには罪はない。あんな赤ん坊を夜中にひとりで置いておくわけにはいかないよ」
わたしの剣幕に圧倒されたのか、母の言葉は歯切れが悪かった。
「そんなの向こうが考えることでしょ。わたしたちに何の関係があるの? あのひとたちの身勝手に付き合わされるのはもういやなの!あのひとたちはいったいなんなの? うちのことをなんだと思ってるの?」
「今まであの人たちのためにどれだけいやな思いをして来たと思う?
おかあさんは多佳ちゃんやきいっちゃんたちが好きだから、それほどには思ってなかったかもしれないけれど、わたしは違うわ。他人のためにいやな思いをするのはもうたくさん!」
「夜中にきいっちゃんが多佳ちゃんを呼びに来るたびに、わたしがどんな思いをしてたかおかあさん考えたことある?
きいっちゃんは石を投げるんだよ、わたしの部屋の窓に、多佳ちゃんを起こすまで何度も何度も。ひとの家に石を投げるなんて、そんなのとっても失礼なことでしょ?
わたし、ずっと我慢してきたわ。いやでいやでたまらなかったけど、なにも言わなかった」
母は黙ってわたしの言葉を聞いていた。これまでのように目を吊り上げて怒ったりしなかった。
「ねぇ、おかあさん、考えてみて。わたしたち家族だけで静かに暮らしたことなんかほとんどなかった。いつもわさわさひとに囲まれて、ご飯食べるときだって寝るときだって。そりゃあ、ひとがたくさんいて楽しいと思うことだってあったけど、わたしは静かに暮らしたいの、他人のことなんか考えずに。わたしだって、しおりちゃんはかわいそうだと思う。しおりちゃんが憎くてこんなことを言うんじゃ決してない。だけど、もう、いやなの。きいっちゃんも多佳ちゃんも、あのひとたちみんな大きらいよ」
わたしは声をあげて泣き伏した。こころの奥にずっと押し込めていたものがいっぺんに吹き出してきたようだった。涙はつぎからつぎにあふれて止まらなかった。
わたしはひと前で泣いたことがほとんどなかった。泣くのはみっともないことであり、わたしはこの家のおとうさんだから泣いたりしてはいけないのだと思っていた。
これまでわたしは自分の気持ちをきちんと言葉にしてひとに伝えることができなかった。 母の言うことが理不尽だと思うことがあっても、ふくれっ面をして顔をそむけるか、二階に駆け上がるくらいしかできなかった。わたしは泣きながら自分のからだがだんだん軽くなってゆくのを感じていた。
「そうだね、あんたの言うとおりかもしれない。わたしはこれまであんたの気持を考えてやらなさすぎたようだ。明日行って断ってくるよ」
わたしが泣きやむのを待って、母が言った。それは正面から母に刃向ってはじめて手にした勝利だったが、単純には喜べない苦い勝利でもあった。
多佳は勤めはじめた。アパートの1室にひとり寝かされている赤ん坊の姿を思い浮かべると理不尽な意地悪をしているようで気がとがめたが、わたしには関係ないことだと自分に言い聞かせていた。母もしおりのことに関してはそれっきり何も言わなかった。