「それで、そのまんま離婚届を役所に持ってっちゃったってわけかい?」
「どうもそうらしいんだよ。多佳ちゃんが届け用紙を用意してたんだってきいっちゃんへの嫌がらせくらいのつもりだっただろうし、きいっちゃんが判コ突いたんだって腹立ちまぎれの成り行きでしかないんだろうけど、それをそのまま役所に出しちゃうなんて、その気もないくせにほんとに呆れるよ」
「まっ、いっそすっきり別れてくれりゃあ、こっちも余計なとばっちり受けなくてすんでありがたいけどね」
「だけど、そのまま別れちゃうなんてとても思えないよ」
「そりゃそうだ。切った張った死ぬの生きるのってやり合いながら死ぬまでやっていくんだろう、ああいう連中は。あれがほんとの腐れ縁さ」
「やれやれだねぇ」
「ほんと、やれやれもいいところだ」
正子伯母は一日に2回は一服しにわが家にやってくる。上がり框に腰かけた母と正子伯母の吐き出す煙が店の中でくねくねと半周して外に流れ出て行った。
多佳が役所に離婚届を出したのはつい昨日のことだった。母たちの言うとおり、多佳と喜一がこのまま別れてしまうとは思えなかったが、結婚も突発事故のような成り行き任せなら、離婚もまた人騒がせな突発事故の成り行き任せだった。
「そういえば、ユキちゃんはどうしてるかねぇ。あの子の夜泣きには手を焼いたけど、かわいい子だったねぇ。ほんのいっときでも抱いて寝たんだもの。
夜布団に入ると、あぁ、あの子がここに寝てたんだなぁなんてときどきしんみり思い出すよ」
「ユキちゃんが向こうにもらわれて行ってからどのくらいたったかね」
「そうだねぇ、あれは・・・」
正子叔母は指を折って数え始める。
「5か月になるかなぁ、いや、もう半年越えてしまったか。早いねぇ、時間がたつのは。それでユキちゃんママはすこしは元気になったかい」
「う〜ん、そう簡単に忘れられるものじゃないだろうからねぇ」
「そりゃねぇ、死ぬまで忘れられるもんじゃないよ。裁判なんてするもんじゃないね。決まり決まりで、ひとの心まで考えちゃくれないんだから。いっそこどもをつれてどこかに逃げちゃえばよかったんだ」
「向こうがどんなひとたちかわからないけど、別れた相手をよく言う人間はいないもの。死んだとでも聞かされるか、ろくでもないおんなだったとか悪口ばかり聞かされるか、どっちにしてもかわいそうなもんだ」
ふたりは同時にたばこを灰皿において、エプロンの端で目頭をぬぐった。吸いかけのたばこからす〜っと細い二本の筋が昇ってゆく。
「しかし、この店もすっかり暇になっちゃったねぇ」「ほんとに、困ったもんだ」
正子伯母が40分くらい前にやってきてここに座ってからまだひとりもお客が来ていない。
「おでんはいくらかいいのかい」
「そうだね、おでんの売り上げでなんとかなっているようなもんだけど、それだって手間がかかるばかりでほんとうに儲かっているんだかどうなんだか。うまくいかないことばっかりで、マッタクいやになっちゃうよ」
母ががっくり肩を落とす。正子叔母もいっしょに「はぁ」とため息をついた。
「それはそうと、亀屋と小松堂の若奥さんふたりが入れ替わっちゃったって話はほんとうだったんだね」
正子叔母が気分一新とばかり顔を上げて活きのいい声で言った。
「昨日しばらくぶりで亀屋に行ったらさ、店の奥で小松堂の若奥さんが当たり前のような顔しててんぷら揚げてるだろ、わたしゃ、まぁ、ほんとにびっくり仰天。それでわたしの顔見て『あら、おばさん、こんにちは』なんて平気な顔して挨拶してるんだから。今の若い人は度胸がいいよ」
亀屋はいろは通りから一本入ったところにある天ぷら屋で、小松堂は通りの奥にあるお茶屋さんだ。そこの若夫婦どうしの組み合わせが入れ替わったそうで、「それこそほんとの夫婦交換だ」とひそひそ話が伝わっていた。
「それで双方うまくいってるっていうらしいから、あきれたというか、それはそれでよかったというか。ともかくも世の中つぎつぎ訳のわからないことがおきるものだ」
母たちの会話はあちこちに飛び火していつまでも終わらない。
「おう、居るけぇ!」
どなり声とも言えそうなほど威勢のいい声がして、店の前にメメのおばさんが仁王立ちに立っていた。仁王立ちといっても小柄でやせこけたおばあさんだったからほんの小さな仁王さまではあった。
「やっぱり正子もここにいたな。お前んとこに寄ったら留守だったから、どうせここで油売ってるんだろうと思って来てみたら、案の定だ。おっ、初江も元気だったか? お前んとこにも持って来てやったぞ。ほら、土産だ」
メメのおばさんは下げていた買い物かごからビニール袋をふたつ取り出して母たちの前に差し出した。
「今日は肉じゃがだ。豚肉がいっぱい入ってるからうめえぞ」
メメのおばさんはそろそろ70に手が届くおばあさんだったが、痩せこけてはいるものの体全体が鋼鉄ででもできていそうなほどぴんしゃんと元気だった。祖父母がいなくなった今でもときどき「おぅ、居るけぇ」と大声をあげながらやってくる。
どこかの工場の寮で住み込みの賄いをやっていて、賄いで余ったものか、わざわざ多めに作って取っておいたものか、ときどきビニール袋に詰めて土産だと言って持ってきてくれる。
今では当たり前になっているけれど、そのころはまだお惣菜をそんなものに詰めるという習慣がなかったから、透明のビニール袋にぐちゃっと詰まったカレーや肉じゃがはわたしには気持ち悪く見えた。
メメのおばさんは祖父のまたいとこに当たる同郷人で、こどものころ病気だったか怪我だったかで片目を失明して、その失明した片目にいつも黒い眼帯を掛けていたのでわたしたちこどもはそう呼んでいた。
母の話によれば、片目が見えなくなったせいですっかり根性がねじ曲がって、村では「おんな海賊」と呼ばれた悪童だったそうだ。
両親とも早くに亡くなって、豆腐屋を営んでいた長兄のところに世話になっていたのが、14の時、兄嫁さんと大喧嘩して、誰もいないすきに商売物の豆腐をぜ〜んぶぐちゃぐちゃに引っかきまわして家を飛び出し、それ以来一度も村に帰ったことがないという剛の者である。
祖父はメメのおばさんを「きちがいバッサ」と呼んで、おばさんがごめん下さいとも言わずガラッと戸を開けて「おお、みんな、居るけぇ」と大声をあげながら入ってくると、
「ちっ、また、きちがいバッサが来やがった」と口をひんまげて言う。
そう悪口は言っても故郷に足を向けることができないはぐれ者同士、それはそれなりに仲よしではあったのだ。
「おう、じいさん、元気かい、まだくたばっちゃいないようだな」
「お前こそさっさとそのデカイ口を閉じるんだな。もっともお前ほどのきちがいバッサじゃ閻魔さまも願い下げだろうが」
「はは、そりゃあ上等だ。せいぜい世にはばかることにしようじゃないか」
おばさんは「きちがいバッサ」と言われようがなんだろうが、そんなことはまったくおかまいなくずかずか上がり込んできて、こどもたちは早々に退散する。早々に退散するのはおばさんが苦手だからではなく、叩き出されるからである。
「なんだ、なんだ、なんで真昼間からこどもが家の中にいるんだ。さっさと外へ出ろ。こどもは外で遊べ」と、どなり散らしてこどもたちを追い払う。木枯らしが吹きすさむ寒い日だろうが真夏のカンカン照りだろうが容赦はしない。炬燵にでももぐっていようものなら布団をはぎ取られて蹴飛ばされるのである。
「なんだかますます時化てきたなぁこの店は」
メメのおばさんは周りをぐるりと見回して言う。
「店の隅にほこりが積もってるようじゃないか。商売は気合が肝心だよ。どんな商売だってやる気が失せちゃ客だって寄ってこなくなるよ」
「そうは言っても、やる気だけじゃどうしようもないこともあるよ、おばさん。こんな小商いはスーパーにはどうやったって勝ち目はないもの」
「いや、それは違うね。まずはもっとこぎれいにしなけりゃ。金かけなくったってやりようでいくらでも見栄えよくできるもんだよ」
わたしもそれには同感だった。自分から進んで動き出す気にはなれなかったけれど、母は家の中も店も構わなさすぎるとひそかに思っていた。
「よしっ、明後日の日曜、一日がかりでこの店の大掃除だ。おい、すず、お前もいっしょにやるんだぞ。7時には来るから、その前に起きてな。咲にもそう言っとけ」
メメのおばさんも高校生になったわたしにはさすがに「外へ出ていけ」とは怒鳴らない。言うだけ言うと「じゃ、日曜日な」と言い残して意気揚々と帰って行った。
そして翌々日の日曜日、わたしと咲は7時5分前に飛び起きて、大慌てで着替えをすませ顔を洗いおばさんの襲来に備えた。
おばさんは約束通り7時ぴったりにやって来て、母とわたしと咲と、途中から正子伯母も加わって、それこそ丸1日かけて、店中のものをあっちこっち移動し棚を外し、外に出せるものは外に出し、隅々のほこりを払い、コンクリートの土間から壁から天井電灯までていねいに水拭きし、ガラスケースやガラス瓶を磨き立てた。
夕方、日が落ちるころようやく終了したときには、店の中は見違えるほどきれいになった。なんとなくうす暗いと思っていた店の中は数倍明るく、ていねいに磨いたガラス瓶が電灯の下できらきら輝いて見えた。
「ほらね、店はいつもこんな風にしとかなきゃ、来るお客も来なくなっちまう」
メメのおばさんは疲れたようすも見せず、晴れ晴れとした顔で言った。
「ほんとにおばさんの言うとおりだ。なんだかうちの店じゃないように見えるよ」母もうれしそうだった。これでまたお客さんが来るようになりそうな気がして、わたしも気持ちがぱっと明るくなった。しかし、どんな心意気も世の中の流れには逆らえない。メメのおばさんの神通力も天までは届かず、わが家の駄菓子屋はその後も下降線をたどる一方だった。