わが家にはしおりしかいないのだから、以前のように喜一がやって来て窓に石を投げるようなことはなくなったが、多佳が働いている「ノワール」にはときどき顔を出していたらしい。
「それが、どういうわけかすぐに喧嘩がはじまっちゃうんですよ。なんでそんなことで言い争いになるのか、聞いててもさっぱりわからないんですけど」
「ノワール」のママが店先でこんなふうにこぼしていたことがあった。
ママの声はたばこの吸いすぎかお酒の飲みすぎか、かなりかすれている。ちょっと尖った感じの美人で、母たちよりは若そうだけれど年齢は不詳である。
「他のお客さんがいようがいまいがお構いなしなんでこっちも困っちゃうんですけどねえ。ただあのふたりを見てると哀れというか、切ないというか、かわいそうになっちゃって怒る気にもなれないんですよ。あれほど好き合っているふたりもいないくらいなのに、悪縁っていうんでしょうかね。あのふたりを引き合わせた神様もずいぶん罪つくりだなぁなんて思ったり」
「そうなんですよ。わたしもつくづくばかばかしいと思うこともあるんですけど、なんだか放っておけなくて。
あんなふうでも根はめったにないくらいまっすぐないい子たちなんですよ。中学生のころからよく知ってるもんだから、他人のような気がしなくてね」
ママから差し出されたハイライトを遠慮がちに受け取って、フィルターの口にまじまじと見入りながら母が言う。
何かの物語のなかにお互いにあまりに恋い焦がれ合っているものだから、顔を合わせたとたんふたりとも気絶してしまって、ふたりの恋は永遠に成就しないなんて話があった。多佳と喜一もそれと似たようなものかなぁと母たちの話を聞きながらわたしはぼんやりそんなことを考えていた。
ともかくも今のままでは多佳たちがふつうの家族として平穏に暮らして行ける道はなさそうだった。
あるとき、「ノワール」でまたいつもの言い争いをはじめて、多佳が喜一の前にひょいと一枚の紙切れを突き出した。
「さぁ、これを持ってって、判を押してきなよ。そうすりゃさっぱりかたが付くんだ。最後くらいおとこらしくやってもらおうじゃないか」
喜一は何も言わず多佳の手からそれをひったくると、店から飛び出して行き、何日かして多佳がまだ店にやって来ない時間を見計らって、判をついたのを置いて行ったそうだ。
多佳はこのとき26になったばかり。「ノワール」にはいつも和服で出ていたが、面長でほっそりした多佳にはそれがとてもよく似合っていた。昔から着物を着なれている多佳の着付けはどことなく素人離れしていて、襟の抜き加減も、ゆったりした帯の締め具合も、野暮くさいところが少しもなかった。
かといって水商売風というのでもなく、多佳の着物姿には思わず見とれてしまうような小粋な風情があった。
ことに、こんなきれいな襟足を見たことがないと思うほどきれいな襟足の持ち主で、細く長い首筋をうつむけた後ろ姿は日本画に描かれた美人そのものだった。髪も美容院には行かず、自分できれいにまとめていた。
「金がないからよ、パーマ屋なんかに行けねえんだよ」
そんな乱暴な言葉を吐きながら小さなブラシと何本かのヘアピンだけであっというまに結い上げてしまう。何をしても手際よく器用だった。
「もったいないねぇ・・・・」
母はよくため息をついた。
「せっかく器用な手を持っているのだから、何か技術を身につければいいのに。あんただっていつまでも若くいられるわけでもなし、金にはなるかもしれないけれどやっぱりバー勤めは感心しない。
しおりちゃんだって赤ん坊のうちはいいけど、もう少し大きくなったときのことを考えてごらん、かわいそうじゃないか」
多佳にはそんな母の言葉も愚痴としか聞こえない。へらへら笑いながらわたしに向かって片目をつむって見せたりする。
「だいじょうぶよ、30過ぎてまでバーの女給をやってようなんて思っちゃいないからさ」
そうは言っても30過ぎたらどうするのか、そんなことはまったく考えていない。美しい容姿、回転のいい頭、器用な手先、何から何まで恵まれているのに、多佳にとってはそんなものはあってもなくても同じなのだ。
「もったいないねぇ・・・」
そう思うのは母ばかりではない。高校生のわたしや中学生になったばかりの咲までも、ときどき顔を見合わせて、「もったいないねェ、多佳ちゃんだったらどんなことだってできるのに」とつぶやくことがあった。
「ねぇねぇ、美容師さんはどう?」と咲が言う。
「そうそう、なんにも習わなくたってそんなに上手にできるんだもの。美容師ならおんなの一生の仕事になるし、多佳ちゃんは趣味もいいからこんなにぴったりの仕事もないくらいだ」と母が後押しをする。
「やだよ、あれって、おんなのお客相手に言いたくもないお世辞言ったりしなきゃならないだろ。わたしはそういうの大の苦手だもん」
「それなら、小料理屋はどう? 『お里』みたいなおいしい料理をいっぱい出して。多佳ちゃんだったらお里さんに負けないくらいおいしいのを作れそうじゃない」と里子さんのお惣菜の味が忘れられないわたしが言う。
「そうだね、はじめは屋台に毛が生えたくらいのほんの小さいお店でいいからさ、あんただったらきっとうまくやれるよ。あんたが小料理屋を始めたら『小料理お里』の再来だって大喜びする人たちがいっぱいいそうじゃないか」
母がまたまた後押しをする。実際多佳は料理の腕もなかなかなのである。
「小料理屋か。それならいっそ『よし川』の向こうを張って『たか川』とでも名付けて、『よし川』のお客を分捕って、うちのババアの鼻を明かしてやろうか。あははは、こりゃあおもしろいわ。
だけどわたしがそんな店はじめたら喜一が入り浸ってこれさいわいと無銭飲食決め込むことになりそうだしなぁ」
多佳には何もかもただの笑い話で、本気で何かをはじめようという気はさらさらないのだった。離婚届けを出してしばらくたったころ、楠木田が多佳に結婚を申しこんだという。
前にもちょっと書いたけれど、楠木田は玉の井一帯を取り仕切るやくざで、年のころは40半ば、ちょっと太めのからだを揺すりながらいつも数人の手下を従えて実に偉そうに通りを闊歩していた。
バー街のいちばん目立つところに店をいくつか構え、それ以外にもいろいろ身入りがあったのだろう、たいそうな羽振りのよさで、有名な相撲取りや歌手や映画スターがしょっちゅう招かれていた。
島倉千代子がやってきたときはいろは通りは見物人であふれかえって警官が整理に出るほどの大騒ぎだった。相撲取りや俳優がやってくるのはめずらしくなかったが、彼女ほどの大物スターがやって来たのははじめてのことだった。
彼女の姿をひと目見ようと、1時間も2時間も前からひとが集まりはじめ、今か今かと到着を待っていた。彼女は黒塗りの高級車に乗ってやってきた。
隣にかしこまって座っていた楠木田は車から降りると大げさな身ぶりで彼女に手を差し出し、彼女は楠木田に手を取られて車から降り立った。
舞台衣装さながらの豪華な振り袖姿の彼女は、白く塗った顔をにこやかにほころばせながらぐるりと周囲を見渡した。見物人のあいだから歓声が湧き、ひと波が崩れた。
彼女に一歩でも近づこうと野次馬は先を争ってぞろぞろその後についていった。
楠木田は子分達に取り囲まれて最期まで彼女の手を握ったまま、得意満面で接待場所になっている「錦水」という料理屋に向かって行った。
「それにしても人気商売って言うのはつらいもんだ。あんなおとこに手を握られてうれしそうな顔してなきゃならないんだから」
さっそくおさつさんが見に行かなかった母に実況報告をしにやってきた。
「それがさあ、『錦水』に入るまでずっと手を放さないんだよ。わたしゃすぐそばで見てたけど、こんなふうにぎっちり握りしめちゃってさ、いやらしいったらありゃしない。
紋付きなんか着こんじゃって花婿にでもなった気でいたんだろうよ。あぁあ、とても自分のむすめにゃあんな商売はさせられないよ」
といっても、おさつさんにはむすめもむすこもひとりもいないのである。
「だけど、さすがにお千代さんはきれいだったねぇ。おしろいお化けだなんて悪口をいうのもいるけど、そんなことはない、ほれぼれするほどいいおんなだったよ。あのやくざがでれでれ鼻の下を伸ばす気持もわかるよ」
おさつさんはお千代さんの大ファンだった。
その楠木田がこともあろうに多佳に目をつけた。結婚を申し込んだと言っても、楠木田には奥さんもこどももいるのだから実にあきれ果てた話ではあった。