楠木田が多佳に目をつけたのも当然と言えば当然だった。町の中には水商売のおんなはいくらもいるが多佳ほどのおんなはひとりもいない。多佳のちょっと投げやりでくだけた物腰や伝法な物言いが楠木田のようなおとこを引きつけるのかもしれない。
それに「よし川」の跡取りむすめでは楠木田でもそう簡単に言い寄ることはできないが、今は「よし川」とも絶縁状態にある。ただの子持ちの女給ということならば誰はばかることもない。楠木田にとってはこの際、喜一のようなチンピラの存在は問題外である。
「あんたさえその気になってくれれば、女房とはいつでも別れる」
楠木田はそう言って豪華なダイヤの指輪を多佳に差し出したそうだ。
奥さんというのはちょっとからだの弱い人で、このときもしばらく前から入院中だった。運転手つきの外車を乗り回し、冬になるとミンクのコートを羽織って出歩く。そんな贅沢ができるのは、玉の井ではこのひとくらいなものだった。
そんな派手な暮らしむきの割には気さくな人柄で、わが家のもんじゃ焼き屋の上得意だったこともあったので、つい先日、母といっしょにお見舞いに行ってきたところだった。わたしが母にくっついて行ったのは、そういうひとがどんな入院生活をしているのか見てみたいという物見高さからである。
奥さんはさすがに個室ではあったが、特別豪華というほどでもない病室に、特別贅沢とも言えないふつうのパイプベッドの上に起き上がって、こどもたちが心配だから早く退院したいとか、ふつうの母親とかわらないことをごくふつうに話していた。
違っていたのは、ひらひらのいっぱいついたドレスのようなピンクのネグリジェを着ていたこととその背後に爆弾ねえさんがあいかわらず守護神のごとく、心配のあまり憤怒の色さえ浮かべて控えていたことくらいだった。
奥さんはただでさえ細いからだがさらにやせ細って、帰る道道母が「すぐにでも退院できそうなこと言ってたけど、あのようすじゃほんとに退院できるようになるのかねぇ」と言っていたくらいだったから、爆弾ねえさんが愛染明王の如き形相になってしまうのも無理からぬことではあった。
「それでまさか承知したわけじゃないでしょうね」
母は驚きのあまり目をひんむいている。
「うん、いちおう考えておくって答えておいた」
多佳は他人事のような口ぶりで言うが、多佳が楠木田と結婚するなんてことになったら町中の語り草になるにちがいない。
さしづめおさつさんなどは「そうとうなあばずれだと思ってたけどやっぱりね」とかなんとか、わが意を得たりとばかり触れ歩くことだろう。
楠木田はわたしから見れば別世界のアンタッチャブルな存在、ダーティではあるもののまさに「雲上人」だった。その楠木田を手玉に取るようにして鼻先で笑っていられるのだから、わたしはわたしでそんな多佳を「多佳ちゃんはやっぱりスゴイ、カッコイイ」とすこしばかりの驚きと尊敬のまなざしで見つめていた。
「やあねぇ、おばさん。わたしがそんな話に乗るとでも思ってるの。貫一お宮じゃあるまいし、ダイヤモンドに目がくらんだりするもんですか。そりゃ喜一とは別れたわよ。だからって、それじゃ『はい、お次』なんて、そんな尻の軽いおんなじゃないわよ、わたしは」
それは多佳の言う通りだった。喜一以外のおとこに目を向けたりしたことなどこれまで一度だってなかったのだ。
「ダイアモンドにィ、目がくらみィ・・・」
多佳は節をつけて歌いながら抱いていたしおりの両手を引き上げた。
「ねぇ、しおりのおかあちゃんはそんなにばかじゃないよねぇ」
しおりは宙づりにされてキャッキャと笑いながら多佳の膝の上で飛び跳ねていた。
「それにしても、あの奥さんが知ったらどうなるかしらねぇ。亭主が他のおんなに言い寄ってるなんてこと、夢にも思っちゃいないだろうけど」
多佳はちょっと意地の悪い言い方をして笑った。
「まぁ、冗談じゃない。そんなことになったらただじゃすまないから。あの奥さんだっておとなしそうには見えるけど、やくざの女房になるくらいだもの、おとなしく引きさがったりするわけがない。
第一、奥さんには爆弾ねえさんがついてるんだ。あのねえさんにひとにらみされることを考えるだけで寿命が縮んでしまう。断るんなら少しでも早く断っておいたほうがいいよ」
「ふん、平気よ。もし知れたってわたしが悪いわけじゃなし。ああ、それならいっそ楠木田と結婚してやろうかしら。そしたらピーピー言いながらバー勤めしてることもないしさ。だけど爆弾ねえさんってひとも変わってるよね。赤の他人にあんなに忠義尽くしちゃって。ほんとに忠犬ハチ公もいいところだ」
「まぁ、忠犬ハチ公だなんて、ひどい言い方をして」
「あら、おばさん、知らないの? 陰じゃみんな爆弾ねえさんのことそう言ってるんだよ」
多佳はしゃあしゃあとしたものである。多佳には怖いという感情がないらしかった。
「とんでもないおとこに見こまれたもんだ。断れば断ったで逆恨みされても困るし。おかしなことにならなきゃいいけど・・・」
母だけがひとりでしきりに気をもんでいた。
そんなことがあってしばらくたったある夜半、チンピラの喧嘩があった。どなり声といっしょにバタバタと数人の足音が近づいてきて、映画館とお寺に挟まれた暗がりで殴り合いがはじまった。殴り合いといってもひとりが一方的にやられているといった感じで、わたしは思わず窓辺に掛け寄って息をひそめた。
「てめぇ!」
「このやろう!」
「ふざけやがって!」
そういう怒声といっしょに靴で蹴り上げる音、からだとからだがぶつかり合う音、それといっしょに「うっ」とか「おぉ」とかいったうめき声が混じる。だれも止めに出てくるものはない。階下で寝ている母も気がつかないらしく、起き出してくる気配はない。
密集地ではあるものの、向かいはお寺とスーパーマーケットである。スーパーは夜は無人になるし、お寺の家族はこの脇道の反対側の部屋で寝起きしている。脇道で何か起きれば、物音がよく聞こえ、いちばんよく見えるのがわたしがいる二階ということになる。
ここではたいした事件は起きたことはなかったが、中のバー街で、つい先日チンピラ同士のけんかで死人が出たばかりだった。チンピラや酔っ払いの喧嘩は日常茶飯事だったが、死者が出るようなことはほとんどなかった。
死んだのはよく知っていた中学の同級生で、どこかの知らない誰かが死んだと聞かされるよりショックは数倍大きかった。
殺された岩越くんは、同じクラスになったことはなかったけれど、小学校から中学までいっしょで、顔はよく知っていた。わたしの時代にも「不良」と目される生徒はたくさんいた。ひとくくりに「不良」といっても、喜一たちのようにちょっといいかっこして騒ぎたいだけのから、そうとう危なげで、そのままそっちの世界に行ってしまいそうな子までさまざまだった。
岩越くんはどちらかというと物静かで成績もけっこうよかったから、そういう世界に足を踏み入れそうには見えなかったが、中3になったときはすでに番町格で、高校にも行かず、そのまま裏社会にかかわってしまったらしかった。
飲み屋だかバーだかでからだが触れたとか目つきが気に食わなかったとか、そんなささやかなことから喧嘩になり、いきなり刃物で刺されての失血死だった。
高校に行っていれば2年生でまだ17歳である。17歳でそういう場所に出入りしている事自体が問題ではあるものの、ともかくもほんのちょっとしたはずみでひとは死んでしまうのだ。
自分の家の前で人殺しがあったのではたまらない。みすみす見逃して、助けられるものも助けなかったとしたらどんなにか悔いを残すことだろう。
でも、うっかり関わって仕返しされるようなこともあるかもしれない。どうしよう、どうしようとどきどきしながら身をすくめていたわたしの耳に、どなり声に混じってほんの一瞬「たか・・・」という声が聞こえたような気がした。
空耳かもしれないと思えるほどかすかな声だった。その声が喜一に似ていたような気がした。それがわたしに弾みをつけた。
「おまわりさあん!」
思いきり大きな音を立てて窓を開けるとこう叫んだ。
「おまわりさあ〜〜〜ん! おまわりさあ〜〜〜ん!」
わたしは声をふりしぼって何度も何度も叫んだ。
一瞬のうちにさわぎが収まって、バラバラとおとこたちの足音が遠のいて行った。脇道には街灯の明かりも届かずうす暗かった。その暗がりに人がうずくまっているのがぼんやり見えた。その人影はよろよろと起き上がってよろめきながらいろは通りのほうに歩きだした。いくぶん猫背の、右肩をこころもち下げて歩く後ろ姿は喜一としか思えなかった。
「きいっちゃん!」
わたしはそう呼びかけたが、その声はわたしののどもとに止まったまま声にはならなかった。長い手足をもてあますように、黒い影がギクシャクと遠ざかって、すぐに見えなくなった。
さすがに母も目を覚まして「どうしたの?」と階段の下から声を掛けてきた。
「うん、酔っ払いのけんか」とだけ答えて、わたしはそれ以上のことはなにも言わなかった。
わたしの家から交番までは50メートルほどしか離れていない。こんな寝静まった深夜でもあるし、わたしの声が交番に届いていないはずはないのに、おまわりさんはとうとう姿を見せなかった。
お巡りさんが来て事情聴取でもされたら面倒なことになるので、来なくて幸いだったかもしれないが。
「おかしなことにならなきゃいいけど」
真っ暗な通りを見つめながら、そう言った母の言葉を思い出していた。
この喧嘩が楠木田と何か関わりがあったのか、それより以前に、殴られていたのがほんとうに喜一だったのか、それさえほんとうのところは何もわからない。しかし、そのころを境に、喜一はこの町に姿を見せなくなった。
「ほんとうに、どうしてるんだろう。元気でやってるのかねぇ」
母が時折思い出したように言うことがあったが、まったく何の消息も入ってこなかった。
ただ、その翌年の暮れに「ノワール」にやってきて、しおりにと言って羽根と羽子板のセットを置いて行った。昼間のことで店にはママしか居ず、「こんなものしか思いつかなくて」と照れ笑いしながらママに包みを渡すとすぐに出て行ったそうだ。
それが喜一の消息を聞いた最後だった。