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玉の井パラダイス

2013年12月5日 更新

第36話 最終回 あの日の二人


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アハ、ちょっと漫画になってしまいました。

喜一が結婚して他に家庭を構えていたことも信じ難かったが、その2年半後に喜一が死んでしまったことは、さらに信じがたいことだった。


多佳が喜一のともだちから聞いたことを、母が多佳から聞いて、わたしが母から聞いた、また聞きのまた聞きの、そのまたまた聞きだったから詳しいことは何もわからない。

ある日突然大量の血を吐いて死んだのだそうだ。お酒の飲み過ぎの胃潰瘍だったのかもしれない。喜一の父親も似たような死にかただった。


別に家庭を持っていてもなんでも、生きていればまた出会うこともあったろうが、死んでしまったとなればもうどうすることもできない。

母やわたしはもちろん多佳でさえ、離婚届を突き付けたあの夜以来ついに一度も喜一に会うことなく、喜一自身がこの世から「おさらばさっさ」と消えてしまったのだ。


母が喜一に「一度会いたい」と言っていたように、わたしも喜一に一度は会いたいと思っていた。会って、多佳がずっと喜一を待っていたことと、恨みごとの3つ4つは言ってやりたかった。10年も音沙汰なしで、自分だけさっさと再婚してしまったことをなじってもやりたかった。それがそのままただの夢想で終わってしまった。


喜一が死んだと聞いてからしばらくして、多佳はしおりをつれて墓参りに行った。

「おばさぁん、行ってくるね」

多佳の声に母といっしょに外に出て見ると、多佳としおりがお墓参りに似つかわしい黒っぽい服を着て立っていた。しおりの手にはしおりが選んだというスイトピーの花束が握られていた。


「スイトピーなんてお墓に似合わないって言ったんだけど、どうしてもこれがいいっていうもんだからさ」

「いいよ、いいよ、若いひとが選んだものらしくって。しおりちゃんのこころ尽くしだもの、喜ぶよ、きっと。わたしも行ってみたいけど、今日のところはふたりだけで行ったほうがいいね。しおりちゃんにとっちゃあはじめてのおとうさんとの対面だものね。といっても墓石じゃどうしようもないけどさ」

しおりは多佳のうしろに隠れるように立って、いつものようにうっすらと笑っただけだった。


「あの子もねぇ、あんな風じゃ、これから先が心配だねぇ。」

ふたりの後ろ姿を見送りながら母が言った。


「1から10まで手取り足取り、なんでもかんでも先回りしてやってあげちゃって、そのくせ怒るときは見ていてかわいそうなほど血相変えて叱り飛ばして、それが親の愛情だって勘違いしてるからねぇ。

いくら言っても聞く耳持たないし・・・。こどもの生きる力を親が押しつぶしてしまっているとしか思えないけどねぇ」


いつだったか、多佳がしおりにたいしてあんまりひどい怒り方をするので、「こどもをそんなふうに叱るもんじゃない」

と母が割って入ったことがあった。


すると多佳は、おばさんには関係ない、余計な口出しはしないでとこれまたすごい剣幕で言い返してきて、それから2ヶ月も3ヶ月も顔を見せなかったことがあった。そういう多佳の態度がしおりのこころをどんどんしぼませていったのだと母は言う。


お墓の前でしおりは全く何の反応も示さなかったそうだ。そりゃあそうだろう。生後間もなく別れたきり死んだと聞かされていた父親が実は生きていて、それが今度はほんとうに死んでしまったからと墓の前に立たされても、何をどう考えていいかわからなかったことだろう。


しおりはこの時中学3年生。からだの弱い子だったが、からだばかりでなくこころも弱いこどもだった。こころの底に何かひとつおおきな空洞を抱えているというか芯になるものが欠けているというか、いつも伏し目がちで活気に乏しかった。

決して頭が悪いというのではなかったが、病気で休むことが多かったせいもあって、学校でもどこか浮いた存在らしかった。

母が心配してうちに呼んでいっしょにご飯を食べたり、ほんのいっときだったけれどわたしが勉強を見てやっていたこともあったが、母親に言われてしかたなく来ているといった感じでいかにも迷惑そうだった。


何か言ってもうっすらと笑顔を作るだけで、声を立てて笑ったり向こうから話しかけて来たりしたことはほとんどなかった。


反抗的だというのならまだやりやすかったろうけれど、しおりは無反応なのだ。そういうタイプのおんなの子でちょっと外見がよかったりすると、多分に異性関係に引きずられがちなものだ。


しおりも中学3年も後半になったころには、同じ年頃のこどもを持った母親たちから眉をしかめてひそひそ話をされ、「あの子に近づいてはだめ」と言われるような「不良」になってしまった。おとこの子たちに混じって夜遅くまで路地のくらがりにたむろしている・・・そういうタイプの「不良」だった。


喜一が死んでから3年後に母が63歳で死んだ。


夜半、突然頭が痛いと言いだし、気になったので寝ずに待っていて、20分程して声をかけたら返事がなかった。あわてて正子伯母を呼び、救急車で病院に運んだがそのときすでに脳死状態になっていて、「呼ぶべき人があったら呼んで下さい」と言われた。


蜘蛛膜下出血でいちばん太い血管が切れてしまっていたそうだった。まもなく呼吸が止まり、人工呼吸に切り替えたものの、一度も意識が戻ることなく、4日後に心臓が止まった。

倒れたのは、知り合いに誘われて2泊3日のお伊勢参りから帰って来た日の夜だった。お伊勢さんの御利益で死ぬはずのところを死なずにすんだというのが本来の筋書きであろうに、よりによってその日の夜にそんなふうに倒れてそのまま死んでしまうなんて、「神も仏もあったもんじゃない」と思ったものだった。


布団に入る前、母は換気扇の下でたばこをふかしながら大きく吐息をついて「ああ、疲れた」と言った。どんなときでも「疲れた」という言葉を吐いたことのないひとだったから、そのときの母の姿が特別印象に残っている。


母はほんとうに疲れていたのだろう。あのときの「疲れた」は、母の一生分の「疲れた」だったのではなかったろうか。


唯一の救いは、わたしがたまたまこどもを連れて実家に帰っていたことだった。仕事で朝の早い咲はすでに寝てしまっていたから、もし、わたしがいなかったら、翌朝、咲が冷たくなった母を見つけることになったはずだ。


誰にも看取れられずひとりで死んでしまったとか、もうちょっと早く見つけられれば助かったのではないかとか、悔やんでも悔やみきれなかったことだろう。

病院で死んでさえ、もっと大きな病院で最先端の治療を受けていたらとか、やはりあれこれ後悔は尽きなかった。


母は63歳から年金を受け取るつもりでいた。仕事もやめてようやくひと並みにゆっくりした老後をと思っていた矢先だった。こどものころから働きづめに働いて、なんの見返りも受け取らずに死んでしまったことが、悔しくてならなかった。


が、母の年を越えた今になってみると、確かに苦労の多い一生ではあったけれど、だれにも頼らず自分ひとりの力で生き抜いて「ありがたい、ありがたい、感謝、感謝」で最期まで暮せたのは、それはそれでなかなかいい人生だったのではないかと思えるのだ。


母がいなくなると、わたしと玉の井とのつながりはほとんど切れてしまい、ほんのときたま正子伯母から誰かれの消息を聞くだけになった。


といっても正子伯母とてそれほどの情報網があるわけでもなくほんの一握りの話が伝わってくるだけで、わずかに伝え聞く多佳親子の消息はといえば聞いてがっかりするようなことばかりだった。


しおりはせっかく入った高校にもろくに行かず、卒業もしないまま18になるかならないうちにおとこにくっついてどこかに行ってしまった。それが母が死んでまもなくのことで、多佳はそれこそ気が狂ったようになって探しまわったが、1年くらい行方が知れなかったそうだ。

そのあとも、戻って来てはまた別の誰かにくっついて・・・という繰り返しで、多佳は多佳で、正子伯母の言う「半分やくざみたいなおとこ」と暮らし始めた。やくざだかテキヤだか、それこそ、なんでよりによってこんなおとことと思えるようなおとこなのだそうだ。

一度だけ、年の暮れに神社の境内の臨時の屋台で、そのおとことふたり寒そうに突っ立ってしめ縄を売っているのを見かけたことがあったそうだ。


「しめ縄を売ってるのが悪いってんじゃないよ。だけど、なにも、あの子がそんなことしてなくったっていいじゃないか。」

「多佳ちゃんはそのひとと正式に結婚してるの?」

「知らないよ、そんなこと。それにしてもあの子がねぇ、あんなところでねぇ」


正子伯母はいかにも悔しそうな口ぶりで、わたしもほんとうにその通りだと思ったが、本人がそれでそこそこ納得しているのなら、他人がとやかく言うことでもないのかもしれないとも思った。


「きれいなひとだったよなぁ」

3年前法事の席でひょんなことから多佳のことが話題になって、正子伯母の次男、わたしにとってはいとこのひとりがこう言った。


「へぇ、あのあたりにそんなにきれいなひとがいたの?」

いとこのお嫁さんが聞く。


「きれいなだけじゃないんだよ。物腰が粋っていうのかなぁ。口のきき方がまたべらんめえ調でさ。ねぇ、おかあさん、きれいなひとだったよね」


「ああ、きれいだったねぇ。あの子はほんとにきれいだった」


「相手の、喜一だったっけ、そのきいっちゃんがまたかっこよくてなぁ。ほら、アメリカの俳優の、だれだったっけ?」


「ジェームズ・ディーン?」


「そうそう、それ、それ。そのジェームズ・ディーンにそっくりでさ」


「日本人なのに?」

と、また、いとこのお嫁さん。


「うん、日本人なんだけど、顎がしゃくれてて、目がちょっと引っ込んでて、日本人離れした顔してたんだ。背も高くて足も長くて、ちょっと不良っぽいところが、また、おれにはかっこよくみえたなぁ」


ひとの美醜なんかに無頓着そうないとこがそんなことを言っているのがちょっとおかしかった。


「わたしも知ってる。2度か3度しか会ったことなかったけど、ほんとうにきれいなひとでこどもごころに、つくづく見とれてたものだったわ。おとこのひとのほうはわたしは赤木圭一郎みたいだって思ってた。ふたりが並んでいたところなんか映画の一場面を見てるようだった」

遠くに住んでいてときどき遊びに来ていた別のいとこが懐かしそうに言った。  


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いずこも同じ・・・。シャッターの下りた店が目立ついろは通り。

「最近、多佳ちゃんに会うことがある?」

多佳の最近の消息はほとんど聞いていなかった。


「そうだねぇ、会うって言ったって、ほんのときたまいろは通りで見かけるくらいなもんだけど。

いつ見ても上から下まで真っ黒ずくめの服着てさ、まるで病気持ちのカラスみたいにふらっかふらっか歩いてるだろ、あんまり情けなくて、声をかける気にもなりゃしないよ」


「病気持ちのカラスか。うまいこと言うね、おかあさんも」

さっきのいとこがそう言って笑った。


「あの子がまさかあんな風になるなんてね。あのもんじゃ焼き屋に集まっていた子たちの中じゃいちばん見どころのある子だったのに。あの子だけはほんとうに見かけ倒しだったっていうか、見損なったっていうか。あんたのかあちゃんが知ったらさぞかしがっかりするだろうよ。あんなに気にかけて面倒見てやってたのにさ」

「それで、多佳ちゃんはまだ前に聞いたそのひとといっしょにいるの?」

「さあね、いっしょにいるんじゃないかね」


病気持ちのカラスか・・・と、わたしはこころの中でもう一度くりかえしてみる。


わたしが多佳に最後に会ったのは母の葬式のときだったから、もうかれこれ30年も会っていないことになる。


70という年になった多佳がいろは通りを黒づくめの病気持ちのカラスみたいにふらふらと歩いてゆく。あいかわらず他人の目などいっさい気にかけていないその姿が目に浮かぶようだ。


わたしもたぶん伯母と同じように、そんな多佳を見かけても声をかける気にはならないだろう。

でも、もし、声をかけても、多佳は自分の見かけなんかまったく気にせぬふうで、「ひさしぶりだねぇ、今どこにいるの?」なんて当たり前の顔して言うんだろう。「もう、おしまいだね、こんなばあさんになっちまったらさ」なんぞと笑ったりしながら。


その正子伯母も一昨年、94歳で亡くなった。一度も介護の世話になることもなく、病院にもひとりで歩いて通っていた。死ぬ前の日もいつもどおり食べて、いつものように布団に入って、朝になったら冷たくなっていた。だれもがそう願うような大往生だった。


正子伯母が亡くなって、わたしに玉の井の話を聞かせてくれる人はもういなくなった。


「東向島駅」と名前が変わったかつての「玉の井駅」は、今風のしゃれた駅になって、ガード下にはお店が並んで、どこにでもありそうなふつうの町になった。ここがかつてそういう特殊な場所だったことを知らない住民のほうが多くなったことだろう。


けれど、そこで暮らす人間にとっては、娼婦がいる町として「特別」であることなんかありがたくもなんともない。「どこにでもあるふつうの町」であったほうがなんぼかいいのである。

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昭和30年代の「玉の井駅」

「おばさんのもんじゃ焼き屋がおれたちのパラダイスだ」

喜一がこう言ったことがあった。


「ねェ、パラダイスってどういう意味?」

ちょっととぼけたところのあるよしこちゃんがそう聞いた。


「きみねぇ、パラダイスはねぇ・・・・やっぱり、パラダイスだよ」

いちばん体格のいいおっさんタイプの古石くんが訳知り顔に言う。


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今の「東向島駅」

「だからぁ、どういう意味なの?」

よしこちゃんが食い下がる。


「だからさ、パラダイスはパラダイスだって言ってんの」

答えられなかったところを見ると古石くんも知らなかったらしい。


「パラダイス〜は、パラダイス、パラダイス〜は、パラダイス」

俳優志望の相川くんが節をつけて歌い出した。

だれかが「チャンチャカ、チャン」とそれに合わせてヘラでもんじゃの茶碗を叩き出し、みんながつぎつぎ茶碗を叩きながら「パラダース〜は、パラダイス」と声を合わせ、もんじゃ焼き屋はあっというまに「チャンチャカチャン」と「パラダイス〜」で大騒ぎになった。


「ちょっとちょっと、そんなに叩いたら茶碗が壊れちゃうじゃないか。ほんとうにばかな不良たちだよ、まったく」


「おっ、おばさんがおれたちのこと不良って言ったぞ。みんな聞いたか」


「聞いた、聞いた、おばさんが不良って言った」


「許せ〜〜〜ん」


「そんじょそこらの不良といっしょにされてたまるか〜〜〜」


「茶碗なんか、みんなぶっ壊したる〜〜〜」


みんなさらに勢いづいて、ゲラゲラ大笑いしながら「チャンチャカチャン、チャンチャカチャン」と叩いては「パラダイス〜」と声を張り上げる。


不良たちの間に挟まってぎゅうぎゅうに押しつぶされながら、わたしも「パラダイス〜」と声を張り上げていた。そういう意味のないばか騒ぎがおかしくておかしくてそんなに笑ったことがなかったくらい笑っていた。


言い出しっぺの喜一は知っていたのかもしれないが、他はほとんどみんなパラダイスの意味なんか知らなかったのだろう。


小学校低学年だったわたしも、毎日のように「玉の井パラダイス」のアーチを見上げながら、「パラダイス」がどんな意味なのかなんて考えたことはなかった。母だって考えたこともなかったにちがいない。


チャンチャカチャンチャカ、チャンチャカチャン


パラダイス〜は、パラダイス、タ・マ・ノ・イ・パラダイスッ


チャンチャカチャンチャカ、チャンチャカチャン


パラダイス〜は、パラダイス、タ・マ・ノ・イ・パラダイスッ


喜一が笑っていた、多佳が笑っていた、相川くんもしいちゃんも、カメちゃんも、よしこちゃんも、みんな笑っていた。チビの咲も古石くんの膝の上にすっぽり収まって、手を叩きながら笑っていた。

でも、いちばんうれしそうに笑っていたのは、母だったかもしれない。

<おわり>


追伸:
先日、連載を終えた著者 北川すず氏にインタビューをしました。次号(12月20日号)はその模様をご紹介する予定です。ご期待ください。



>> 北川すず <<
1948年東京生まれ・早稲田大学教育学部国語国文科卒