2011年3月11日、午後2時46分。
一生涯忘れることのない地獄のような光景にテレビの前で釘付けになった一日。
津波が川を遡り、そして堤防を越える瞬間、人がスローモーションのように堤防を歩いている。画面に向かって、「なにやってんだ、早く逃げろ!」と思わず叫んでしまった。
続々被害状況が伝えられるなか、これはとんでもない災害なのだと悟った瞬間、体の中に悪寒が走った。津波で跡形も無くなった街、漁港、そして田畑、あちこちにゴロゴロと転がっているおびただしい数の車、船舶が陸地の奥まで流され、木造家屋は一瞬にしてバラバラに解体された。津波が去ったあとの市街地は原爆で焼け野原になった、あの広島の映像写真とオーバーラップする。
一瞬にして家屋、家財を消失し、肉親の命が奪われた。被害は東日本の太平洋側総てに及び2万人近い人々が亡くなられ行方不明になった。
この原稿を書いていた3月18日、従兄弟の父親が急死し、宮城県の亘理町に日帰りで葬式に参列してきた。亘理町は仙台駅から常磐線の上り列車で約30分の距離にあり、途中被害にあった仙台空港の南に位置する。津波被害の大きかった三陸沿岸の各地に比べると、津波被害は比較的小さかったが、それでも海岸線から約3キロ先に走っている常磐自動車道路がちょうど堤防の役割を果たし、津波はそこで食い止められた。しかし、海岸線から1kmあまりの従兄弟の家の菩提寺は大きな被害を受けていた。寺を取り囲むように広がっていた集落は新築の建物以外は総て破壊され、跡形も無い。寺の四方は見渡すかぎり建物らしい建物が無い。田んぼは海水に洗われ、米つくりはいつ復活できるか不明だ。寺の檀家からは死者80名を出した。つい1週間前に慰霊塔が建ったばかりで、庫裏の裏にある墓地の墓石はことごとくなぎ倒され、真新しい墓が林立していた。
私は大学2年のとき友人2人と東北に旅した。宮古市の浄土ケ浜から田老に北上して、そこで1泊した。海岸線に万里の長城を髣髴とさせる巨大な堤防に田老の町は守られていた。小さな旅館で一夜を過ごし、翌朝堤防を乗り越えて見た三陸海岸はじつに美しく、雄大だった。
旅館の若い女将は出掛けに「今日は日曜なので海水浴場は大勢の人がでて、混雑してますよ」と忠告してくれたが、長くて広い海岸線に海水浴客はせいぜい数十人いたかどうか。
ほほえましくなるほど牧歌的で、ゆったり時間が流れる町だった。
その町が、町自慢の巨大堤防がいともあっさり巨大津波に飲み込まれてしまった。
巨大地震の三日前から畑の物置小屋に隣り合うように育苗小屋を建て始めた。
会員有志により単管を組み立て屋根と壁をプラスチック製の波板で囲った簡単な小屋を育苗小屋として作った。
最後の仕上げはドアの取り付けだが、ちょうど3月11日の昼少し前に終え、小屋は完成した。育苗小屋を作った理由は自前で夏野菜用の苗作りができるので、農園運営上一歩前進したいという思いからだった。さっそくトマトやキュウリの苗つくりに取り掛かることができる。
そう思いながら、家路について昼食後、心地よい疲労感のなかでゆったりコタツに入ってくつろいでいたとき、大きなゆれに襲われた。家具こそ倒れはしなかったが、これまでに経験したこともないようなゆっくりした大きなゆれだ。尋常な地震ではないことを直感して、思わず玄関のドアを開けて外にでてみた。電柱が大きな振幅で左右に揺れて、電線は暴れたように踊っている。道路隔てた前の家全体が大きく揺れている。庭先に飛びだした向かいの家の母娘が、そのまま抱き合いぺたんと地面に座り込んでいる。
激しい揺れが落ち着いたのを機に、自室のある二階に上がって部屋をのぞいたが、本棚から数冊の本が落ちて、その下においてあった鉢植えの君子蘭の葉に直撃したようだ。葉が何枚か落ちた本の衝撃で折れていた。
やれやれと安堵したそのとき、二度目の激震に見舞われた。思わず両手で本棚を押さえ揺れが収まるまでその姿勢をとり続けた。揺れつづけた時間は分単位だったろうと思うが、異様に長く感じたのは私だけではないだろう。
翌3月12日には人災ともいうべき福島第一原子力発電所が水素爆発を起こして深刻な原発事故を引き起こした。そして政府および当事者である東京電力の事故対応の稚拙さから、福島県民は放射能という見えない敵に悩まされることになる。
原発事故が地震か津波かその原因がいまだに解明されぬまま、1年をすぎてしまった。復興計画や瓦礫処理に手間取り、放射能汚染対策もいまだはっきりせず、この1年という年月は一体なんだったのだろう、そう思わざるを得ないほど政治も行政も十分機能を果たしてこなかった。
埼玉県は一部を除き放射能汚染を免れ、深刻な風評被害にも巻き込まれず、その点では幸運だった。ただ長年継続してきたNPO活動のひとつ「米作り体験」は風評被害の影響を受けて参加者が集まらず中止のやむなきに至った。また2年前から取り組んできた「畑で婚カツ」イベントも野外で行うことを嫌ったのか、参加人数の減少でイベントが成立せず、中止となった。
いろいろなところで震災と原発事故が影響を及ぼしていることを身をもって思い知らされた1年だった。放射能汚染は今後何十年も続き、破壊された原子炉を完全に廃炉状態にするには気の遠くなるほど時間がかかる。自然の復元力は驚くほど早いが、人間が作り出した原子力発電所の復元力は恐ろしいほど遅い。
海底には陸上と同じように瓦礫が散乱しているようだが、いま三陸沖の海は表面上、何事もなかったように以前の美しい姿を見せている。海が残酷なくらい穏やかであればあるほど自然の怒りの深さを思い知らされる。今回のように自然から理不尽な仕打ちを受けながらも人間は自然に生かされ続けるちっぽけな存在にすぎない。
いま私の部屋の君子蘭は何事もなかったように今年もまた鮮やかなオレンジ色の花を咲かし始めた。育苗小屋の中にはキャベツ、ブロッコリー,レタス、ピーマンの種が芽を出し始め、外気温に比べ5度以上温かい小屋の中で、日ごと成長している。
これからトマト、キュウリ、カボチャ、スイカの育苗作業が次々と待ちうけている。
春夏野菜の育苗の頃にはきっと3月11日を思い出し続けるだろう。
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