• 「概要」へ
  • 「イベント」へ
  • 「申込フォーム」へ
  • 「連載」へ
  • 「情報コーナー」へ
  • 「メルマガ登録」へ
  • 「アーカイブス」へ
  • 「リンク」へ

嬬恋私記

2009年6月28日 更新

第6回 山荘暮らしのはじまり


記事関連の写真

三条鍛冶道場での刃物作り

嬬恋村との出会いは、これまで仕事人間だった私の人生観をすっかり変えてくれました。日本の高度成長期の真っ只中で、ひたすら走り続けるモーレツ人間達に負けじと歩調を合わせてきた40代半ばで、月に1度土に触れ、緑豊かな自然の懐で過ごすゆったりとした時間を持つことの喜びが、私の中でじわじわと広がって行き、これからの人生をもっと豊かに過ごして行きたいという気持ちが高まってきたのです。仕事場と夜のネオン街で1日の大半を過ごしてきた時間割に、違ったメニューを取り入れたくなって、週に一度陶芸教室に通い粘土をこね回したり、ファームインの例会の食事当番に備えて料理教室に通ったり、新潟県の三条市が主催する「鍛冶道場」に入門して包丁や山刀づくりにチャレンジしたりと遊びのメニューが増えていきました。

記事関連の写真

大学の演劇部OBたちで作った劇団の公演

そして極め付きは、学生時代熱中していた演劇部のOB会で集まった後輩達と、もう一度芝居づくりをやろうよと劇団を立ち上げたのです。2001年から創設メンバーの急逝で解散した2007年までの7年間に4本のオリジナル台本で東京公演を4回、母校のある金沢公演を2回開催しました。30代から50代のOB/OGと応援で参加してくれた20代の芝居好きな若者たちと一緒に。嬬恋村で農業体験を通して自然との触れ合う機会が出来たおかげで、仕事人間で終わらずに済むことが出来たのではないかと思います。


記事関連の写真

丘の上山荘(左から2番目が我が山荘)

そしてもう一つの転機が、しがないサラリーマンで持てるとは思っても見なかった別荘を嬬恋村の隣町長野原町北軽井沢に建てることが出来たことです。ファームインに参加して2.3年過ぎた辺りから、世話役の繁さんが頻りと「近藤さん、しょっちゅう嬬恋で遊んでいるんだからそろそろ山小屋でも建てたらどうだい」と誘ってくれるのですが、所詮高嶺の花と取り合わなかったのです。しかし「ここはどうだい、いい場所だぞ」「あそこはどうだい」といろんな場所を案内してくれます。そしてあるとき農道沿いを走っていて、小高い丘が見える所で車から降り、丘を指差して「あそこの上は、見晴らしが良くていいぞ」とどんどん土手を登って行く。あわてて後を追いかけて丘を登って何気に後ろを振り返ると、なんと林の向こう側に浅間山がドカンと見える絶景の場所。

記事関連の写真

ベランダから見える浅間山

もしここに山荘を建てたなら、ベランダ越しに見える風景は建物がまったく視界に入らない自然そのままの景色を手に入れることが出来ることだろうと思いました。繁さんの熱心な勧めと、不動産屋を通さないで繁さんのお店から建材も安く提供してくださるということで、浅間山を自分の庭に出来ることを夢見て、嬬恋村と出会って4年目に山荘を持つことにしました。土地は繁さんの知り合いの農家の農地のはずれにある山林原野。100坪を借地してこの丘での最初の1棟目の山荘を建てることになりました。内装・外装とも米松の総板張り仕上げで1階は吹き抜けのリビングルームとキッチン、そして多目的に使えるようにと作業部屋を用意。趣味の木工や、陶芸、収穫野菜の仕分けなどに利用できるようやや広め造り。2階は私たち夫婦のベットルームと息子や娘達が泊まれるように和室を2部屋、1階の洗面と風呂場のスペースの上がロフト風の小さな小部屋が付いた、山荘としてはやや大きめの建物を手に入れることが出来ました。その後、ファームインの仲間も何人かが加わり、2.3年のうちに6棟が建ち並ぶことになりました。拠点を持つことによって嬬恋通いの頻度も増し、又田舎での過ごし方にも変化が現れてきました。次回は山荘暮らしの様子をご紹介いたします。



>> 近藤晋弌 <<
1944年(昭和19年)生まれ 出身地 山口県下関市
大学:金沢美術工芸大学商業美術科
職歴:広告代理店(グラフィックデザイナーを経てセールスプロモーション・プロデューサー)を58歳で早期退職